なる趣味なのか、それとも他日その技を以て生活の一助にでもする腹なのか、よく分らないが、外人にしては手先が器用だし、頭も働いて、日本着物の柄や色合のことなどについても理解が早いこと。彼女が上海で育ったと云うのは、革命の時に一家が散り散りになり、彼女は祖母に連れられて上海に逃げたからなのであるが、兄は母に連れられて日本に来、日本の中学校にも在学したことがあるとかで、漢字の知識も多少は持っていること。そんな訳で、娘は英吉利カブレしているが、兄と母とは非常なる日本崇拝で、家へ行って見ると、階下の一室に両陛下の御真影を掲げまつり、他の一室にニコライ二世と皇后《こうごう》の額を掲げていること。兄のキリレンコが日本語が巧《うま》いのは当然として、カタリナも日本へ来てから短時日のわりには相当にこなすが、一番分りにくくて滑稽《こっけい》なのは老母の日本語で、これには妙子も少からず悩まされること。――― 「そのお婆《ばあ》ちゃんの日本語云うたらなあ、この間もうちに『あなたキノドクでごぜえます』云うねんけど、発音がけったいで早口やさかい、『あなたクニドコでごぜえます』と聞えるねんわ。そんで、うち、『わたし大阪です』云うてしもてん」 妙子は人の癖を取るのが上手で、誰の真似《まね》でも直《す》ぐにして見せて皆を笑わせることが得意なのであるが、その「キリレンコのお婆ちゃん」の身振や口真似が余り可笑《おか》しいので、幸子たちはまだ会ったこともない西洋のお婆さんを想像して腹を抱えた。 「けど、そのお婆ちゃん、帝政時代の露西亜の法学士で、偉いお婆ちゃんらしいねんわ。『わたし日本語下手ごぜえます、仏蘭西《フランス》語|独逸《ドイツ》語話します』云うてはるわ」 「昔はお金持やってんやろな。幾つぐらいやのん、そのお婆ちゃん」 「さあ、もう六十幾つやろか。けどまだちょっとも耄碌《もうろく》してはれへん。とても元気やわ」 それから二三日過ぎて、妙子は又その「お婆ちゃん」の逸話を持って帰って来て、姉たちを面白がらせた。妙子はその日、神戸の元町へ買い物に出た帰りにユーハイムでお茶を飲んでいると、そこへ「お婆ちゃん」がカタリナを連れて這入って来た。そして、これから新開地の聚楽《しゅうらく》館の屋上にあるスケート場へ行くのだと云って、あなたもお暇なら是非いらっしゃいと頻《しき》りに誘った。妙子はスケートは経験