急な話やないか。―――大阪の家はどないするのん」 「どないしてええか、まだちょっとも考えてえへん。―――何せ、東京に行くようなこと、夢にも思うてえへなんだよってに」 いつも電話で長話をする癖のある姉は、切りかけては又しゃべり出し、しゃべり出しして、生れてからまだ一遍も離れたことのない大阪の土地を、三十七と云う年になって離れなければならない辛《つら》さを、それから三十分にも亘《わた》って綿々と訴えるのであった。――― 姉に云わせると、親戚《しんせき》や夫の同僚の誰彼など皆御栄転でおめでたいと云って祝ってくれる人達ばかりで、自分の心持を分ってくれる者が一人もない、たまに一端を洩《も》らしてみても、今時そんな旧弊なことをと、誰も一笑に附して真面目《まじめ》に取り合ってくれない。ほんとうに、その人達の云う通り、これが遠い外国とか、交通不便な片田舎へ遣《や》られでもすることか、東京のまん中の丸の内へ勤務することになって、勿体《もったい》なくも天子様のお膝元《ひざもと》へ移住すると云うのに、何が悲しいことがあろうと、自分でもそう思い、われとわが胸に云い含めているのだけれども、住み馴《な》れた大阪の土地に別れを告げると云うことが、たわいもなく悲しくて、涙さえ出て来る始末なので、子供達にまで可笑《おか》しがられているのだと云う。そう聞かされると、幸子も矢張可笑しくなって来るのであるが、一面には姉のその心持が理解出来ないでもなかった。姉と云う人は、早くから母の代りに父や妹たちの面倒を見た人で、父が亡《な》くなり、妹たちがようよう成人する頃には、既に婿《むこ》を迎えて子持ちになってい、夫と共に傾きかけた家運の挽回《ばんかい》に努めると云う風な廻《めぐ》り合せになったりして、四人の姉妹のうちで一番苦労をしているけれども、又或る意味では、一番旧時代の教育を受けているだけに、昔の箱入娘の純な気質を、今もそのまま持っているところがあった。で、今時大阪の中流階級の夫人が、三十七歳にもなっていて一度も東京を見たことがないなどと云うのは、不思議な話であるけれども、姉は事実東京へ行ったことがないのであった。尤《もっと》も大阪では、家庭の女が東京の女のように旅行などに出歩かないのが普通であって、幸子以下の妹たちも、京都から東へはめったに足を伸ばしたことがないのであるが、それでも学校の修学旅行その他の機