つぶ》せに取って抑えられてしまった感じがした。そして、では早速本家の方とも相談をし、又|此方《こちら》でもその人の身元を調べるだけは調べさせて戴いてと、その時はそう云って別れたのであった。 幸子の直《す》ぐ下の妹の雪子が、いつの間にか婚期を逸してもう卅歳にもなっていることについては、深い訳がありそうに疑う人もあるのだけれども、実際はこれと云うほどの理由はない。ただ一番大きな原因を云えば、本家の姉の鶴子にしても、幸子にしても、又本人の雪子にしても、晩年の父の豪奢《ごうしゃ》な生活、蒔岡と云う旧《ふる》い家名、―――要するに御大家であった昔の格式に囚《とら》われていて、その家名にふさわしい婚家先を望む結果、初めのうちは降る程あった縁談を、どれも物足りないような気がして断り断りしたものだから、次第に世間が愛憎《あいそ》をつかして話を持って行く者もなくなり、その間に家運が一層衰えて行くと云う状態になった。だから「昔のことを考えるな」と云う井谷の言葉は、ほんとうに為めを思った親切な忠告なので、蒔岡の家が全盛であったのはせいぜい大正の末期までのことで、今ではその頃《ころ》のことを知っている一部の大阪人の記憶に残っているに過ぎない。いや、もっと正直のことを云えば、全盛と見えた大正の末頃には、生活の上にも営業の上にも放縦であった父の遣《や》り方が漸《ようや》く祟《たた》って来て、既に破綻《はたん》が続出しかけていたのであった。それから間もなく父が死に、営業の整理縮小が行われ、次いで旧幕時代からの由緒を誇る船場《せんば》の店舗が他人の手に渡るようになったが、幸子や雪子はその後も長く父の存生中のことを忘れかねて、今のビルディングに改築される前までは大体昔の俤《おもかげ》をとどめていた土蔵造りのその店の前を通り過ぎ、薄暗い暖簾《のれん》の奥を懐《なつか》しげに覗《のぞ》いてみたりしたものであった。 女の子ばかりで男の子を持たなかった父は、晩年に隠居して家督を養子|辰雄《たつお》に譲り、次女幸子にも婿《むこ》を迎えて分家させたが、三女雪子の不仕合せは、もうその時分そろそろ結婚期になりかけていたのに、とうとう父の手で良縁を捜して貰《もら》えなかったこと、義兄辰雄との間に感情の行き違いが生じたこと、などにもあった。いったい辰雄は銀行家の忰《せがれ》で、自分も養子に来る迄は大阪の或る銀行に勤めて