は、十何年来の所帯の疲れが一遍に出た形で、何よりも按摩《あんま》を呼んで貰い、昼間から二階の寝室に上って、勝手に寝ころばして置いて貰うのを喜ぶと云った有様であった。幸子は、姉が神戸をよく知らないので、オリエンタルや南京《ナンキン》町の支那料理屋などへも案内しようと思っていたのに、そんな所へ連れて行ってもらうよりは、此処《ここ》で誰に気がねもなくのんびりと手足を伸ばしていたい、御|馳走《ちそう》なんぞ食べさしてくれないでも、お茶漬で結構だから、と云ったりして、一つは炎暑のせいもあったが、足かけ三日の間、何のこれと云う纏まった話もせず、ただごろごろして過してしまった。 鶴子が帰って行ってから数日過ぎて、いよいよ出発の日が二三日後にさし迫った頃、亡《な》くなった父の妹に当る人で「富永の叔母ちゃん」と呼ばれている老女が、或《あ》る日ひょっこり訪ねて来た。幸子は、今まで一度も見えたことのない叔母が、暑い日ざかりに大阪から出て来たのには何か用件があることと察し、その用件も大凡《おおよ》そ分っているような気がしたが、矢張思った通り雪子と妙子の身柄に関しての問題であった。―――つまり、今までは本家が大阪だったから、二人の妹たちが彼方此方《あちらこちら》へ往《い》ったり来たりもよかったけれども、これからそうは行かないとすると、もともと二人は本家に属する人なのであるから、これを機会に本家と一緒に東京へ行くべきであると思う、ついては、雪子は別に支度をする必要もないことであるから、明日にも上本町へ帰って、家族と一緒に立って貰いたい、妙子の方は仕事を持っていることだから、跡始末のために多少おくれるのは仕方がないとして、一二箇月後にはこれも間違いなく引き揚げて貰いたい、尤《もっと》も仕事その物を止《や》めさせようと云うのではないから、東京へ来てからでも人形の製作に耽《ふけ》ることは差支えない、むしろ東京の方がああ云う仕事には便宜が多いくらいであろう。義兄も、折角世間に認められ出した仕事であるから、当人の製作態度が真面目《まじめ》でさえあるなら、東京に於いて又仕事部屋を持つことを許してもよいと云っている、―――と云うようなことなのであるが、実はこの問題は、先達《せんだって》鶴子ちゃんが泊りに来ていた間に相談すべきであったのだけれども、休養させて貰いに来て、そう云う肩の凝る話を持ち出したくなかったの