を知っている一部の大阪人の記憶に残っているに過ぎない。いや、もっと正直のことを云えば、全盛と見えた大正の末頃には、生活の上にも営業の上にも放縦であった父の遣《や》り方が漸《ようや》く祟《たた》って来て、既に破綻《はたん》が続出しかけていたのであった。それから間もなく父が死に、営業の整理縮小が行われ、次いで旧幕時代からの由緒を誇る船場《せんば》の店舗が他人の手に渡るようになったが、幸子や雪子はその後も長く父の存生中のことを忘れかねて、今のビルディングに改築される前までは大体昔の俤《おもかげ》をとどめていた土蔵造りのその店の前を通り過ぎ、薄暗い暖簾《のれん》の奥を懐《なつか》しげに覗《のぞ》いてみたりしたものであった。 女の子ばかりで男の子を持たなかった父は、晩年に隠居して家督を養子|辰雄《たつお》に譲り、次女幸子にも婿《むこ》を迎えて分家させたが、三女雪子の不仕合せは、もうその時分そろそろ結婚期になりかけていたのに、とうとう父の手で良縁を捜して貰《もら》えなかったこと、義兄辰雄との間に感情の行き違いが生じたこと、などにもあった。いったい辰雄は銀行家の忰《せがれ》で、自分も養子に来る迄は大阪の或る銀行に勤めていたのであり、養父の家業を受け継いでからも実際の仕事は養父や番頭がしていたようなものであった。そして養父の死後、義妹たちや親戚《しんせき》などの反対を押し切って、まだ何とか蹈《ふ》ん張れば維持出来たかも知れなかった店の暖簾を、蒔岡家からは家来筋に当る同業の男に譲り、自分は又もとの銀行員になった。それと云うのは、派手好きな養父と違い、堅実一方で臆病でさえある自分の性質が、経営難と闘いつつ不馴《ふな》れな家業を再興するのに不向きなことを考え、より安全な道を選んだ結果で、当人にすれば養子たる身の責任を重んじたからこその処置なのであるが、雪子は昔を恋うるあまり、そう云う義兄の行動を心の中で物足りなく思い、亡《な》くなった父もきっと自分と同様に感じて、草葉の蔭《かげ》から義兄を批難しているであろうと思っていた。と、ちょうどその時分、―――父が死んで間もない頃、義兄がたいそう熱心に彼女に結婚をすすめた口があった。それは豊橋市の素封家の嗣子《しし》で、その地方の銀行の重役をしている男で、義兄の勤める銀行がその銀行の親銀行になっている関係から、義兄はその男の人物や資産状態などをよく知