から2字上げ]鶴子 [#ここから4字下げ] 幸子様 [#ここで字下げ終わり] 東京をよく知らない幸子には、渋谷とか道玄坂附近とか云われても実感が湧《わ》いて来ないので、山手電車の窓から見た覚えのある郊外方面の町々、―――谷や、丘陵や、雑木林の多い入り組んだ地形の間に断続している家々の遠景、そのうしろにひろがっている、見るからに寒々とした冴《さ》えた空の色など、大阪辺とはまるで違う環境を思い浮かべて、勝手な想像をするより外はなかったが、「背中に水を浴びせられるような」とか「筆を持つ手も凍える」とか云う文句を読むにつけ、万事に旧式な本家では、大阪時代から冬も殆《ほとん》ど煖炉《だんろ》を使っていなかったことを思い出した。上本町の家では客間に電熱が引いてあって、電気ストーブを取り附けるようにはなっていたけれども、実際に使うのは稀《まれ》に来客のあった場合、それもよくよく寒い日に限り、平素は火鉢《ひばち》だけだったので、幸子は正月年始に行って姉と対坐《たいざ》していると、いつも「背中に水を浴びせられるような」気持を味わい、風邪を引いて帰って来ることがしばしばあった。姉に云わせると、大阪の家庭で煖房と云うことがそろそろ普及し出したのは大正の末期頃で、万事に贅沢《ぜいたく》であった父でさえも、居間に始めて瓦斯《ガス》ストーブを引いたのは亡《な》くなる前の年ぐらいであったが、それも、引いては見たものの上気《のぼ》せると云って実際にはあまり使わなかった、自分達は皆、幼少の頃からどんな寒い日でも火鉢で育って来たのだと云うのであるが、そして確かにそう云われてみれば、幸子なども、貞之助と結婚して数年後、今の蘆屋の家に移った時から煖炉を使い出したのであるが、一度味を覚えてからは、とてもそれなしでは冬をしのぐことが出来なくなり、子供の時分に火鉢一つでしのいで来たことが、今になると不思議にさえ感じられた。然《しか》るに姉は東京へ行ってまで旧弊を押し通しているらしいので、芯《しん》が丈夫な雪子だからこそ堪えているものの、自分であったら肺炎か何かを起しているであろうと思えた。 見合いの日取り決定については、陣場夫人と野村氏の間に浜田氏と云うものが介在していて、連絡を取るのに手間が懸ったが、なるべく節分前にと云う先方の希望が明かになったので、直ぐに雪子を寄越すように云ってやったのが、月のう