んまりそんなこと云わんようになってしもてん。何や、兄さんも姉ちゃんも考が変ったらしいねんわ」 雪子はそう云って、意外なことを語り出した。―――これは自分の観察であって、姉ちゃん達夫婦の口からはっきりそうと聞かされた訳ではないのだけれども、もともと、夫婦があれほど離れるのを嫌《いや》がっていた大阪の土地を離れて、東京へ出る決心をした動機は、兄さんが出世慾を起したこと、―――そして又、その出世慾を起すに至った原因はと云えば、親子八人もの家族を抱えて亡父の遺産では食べて行けなくなったと云う、少し大袈裟《おおげさ》に云えば生活難を感じ出したことにあるのだから、東京へ来た当座こそ、家の狭さを喞《かこ》っていたものの、だんだん住み着いてみるにつれて、これでも辛抱出来なくはない、と云う気持になって来たのではあるまいか。それには何よりも、五十五円と云う家賃に誘惑されたのであろう。兄さんも姉ちゃんも、何しろこんな家だけれども家賃も安過ぎると、誰に言訳するともなく云い云いしていたが、そんなことを云っているうちに、いつかその安さに釣《つ》られて居すわる料簡《りょうけん》になったのであろう。それと云うのが、大阪にいればこそ家名や格式を気にする理由もあるけれども、東京へ来てしまえば「蒔岡《まきおか》」などと云ったって知っている者はないのだから、下らない見えを張るよりは、少しでも財産を殖やすように心がけた方がよい、と云った風な実利主義に転向したとしても不思議はない。その証拠には、兄さんは今度支店長になって月給も上り、それだけ懐《ふところ》にも余裕を生じた筈なのであるが、万事が大阪時代から見ると締まり屋になった。姉ちゃんも兄さんの旨《むね》を含んで、驚くほど倹約になり、日々の台所の買い物なども眼に見えて始末をする。―――尤《もっと》も、六人もの子供の食事を賄《まかな》うのだから、お菜《な》一つ買うのにも頭を使うと使わないとでは随分な違いになる訳であるが、賤《いや》しいことを云えば、お惣菜《そうざい》の献立なども大阪時代とは変って来て、シチュウとか、ライスカレとか、薩摩汁《さつまじる》とか、なるべく一種類で、少しの材料で、大勢の者がお腹一杯食べられるような工夫をする。そんな風だから、牛肉と云ったって鋤焼《すきやき》などはめったに食べられず、僅《わず》かに肉の切れっ端が一|片《ひら》か二片浮いているよ