空腹を訴えていた三人は、目立たぬように、しかし相当に急いで食べたが、分量があまり豊富なのと、次々とすすめられるので、すぐ満腹を覚え始めて、時々そっと、テーブルの下へ来ているボリスに食べかけを投げてやったりした。 と、表の方でガタンと云う音がして、ボリスが玄関へ飛んで行った。 「お婆ちゃん帰って来やはったらしいわ。………」 と、妙子が小声で二人に云った。 真っ先に「お婆ちゃん」が、こまごました買い物の包みを五つ六つ提げて、すっと玄関を通り抜けて台所へ消えて行った後から、兄のキリレンコが五十がらまりの紳士を連れて食堂へ這入って来た。 「今晩は。もう御|馳走《ちそう》になっています」 「何卒々々《どうぞどうぞ》、………」 と、お辞儀をすると同時に揉《も》み手をしながら、西洋人の男にしては小柄できゃしゃな体格をしたキリレンコは、羽左衛門型の細面の両|頬《ほお》を、春寒の夜風に吹かれて来たらしく真っ紅にして、何か露西亜語で妹と二言三言云い合っていたが、日本人には「ママチカ、ママチカ」と云う語だけが聞き取れて、多分露西亜語の「母」の愛称なのであろうと推量された。 「わたし、今ママと神戸で会って一緒に帰って来たんです。それからこの人、―――」 と、キリレンコは件《くだん》の紳士の肩を叩《たた》いて、 「妙子さんこの人御存じですね。―――私の友達のウロンスキーさん」 「はあ、私知ってます。―――これ、私の兄さんと姉さん、―――」 「ウロンスキーさんと仰《お》っしゃるんですか、『アンナ・カレニナ』の中に出て来ますね」 と、貞之助が云った。 「おお、そう。あなたよく知っています。あなた、トルストイ読みますか」 「トルストイ、ドストイェフスキー、日本の人は皆読みます」 と、キリレンコがウロンスキーに云った。 「こいさん、どうしてウロンスキーさん知ってるのん」 と、幸子が聞いた。 「この人、この近所の夙川ハウス云うアパートに住んではるねんけど、えらい子供好きで、何処の子供でも可愛がりはるのんで、『子供の好きな露西亜人』云うたら、この辺で有名やねんわ。誰も『ウロンスキーさん』云わんと、『コドモスキーさん』云うてるわ」 「奥さんは」 「持ってはれへん。何や、気の毒な話あるらしいねんけど、………」 ウロンスキーは成る程子供好きらしい、柔和な、何となく気の弱