って、その恋人が濠洲《ごうしゅう》にいてる云うことが分ったのんで、あの人、濠洲まで訪ねて行きやはりましてん。そしたら、やっと居所が知れて、会えたことは会えたけど、直きその恋人が病気になりやはって、死んでしもたんで、それから一生|操《みさお》立てて、独身通してはりますねん」 「成る程なあ、そう云えば確かにそんな感じする人や」 「濠洲で一時苦労しやはって、鉱山の坑夫にまでなってんけど、後で商売して、お金|儲《もう》けはって、今では五十万円から持ってはりまんねん。カタリナの兄さん、あの人から幾らか資本出してもろてるらしいねんわ」 「おや、何処かで丁子《ちょうじ》が匂《にお》うてる。―――」 と、別荘街の、生垣《いけがき》つづきの路へ這入ると幸子が云った。 「あーあ、まだ桜が咲くまでには一と月あるねんなあ、待ち遠やわ」 「わたし、待ち遠ごぜえます」 と、貞之助が「お婆ちゃん」の口真似《くちまね》をした。 [#5字下げ]十八[#「十八」は中見出し] [#ここから1字下げ] [#ここから32字詰め] [#ここから罫囲み] 原籍地 兵庫県姫路市竪町二〇番地 現住所 神戸市|灘《なだ》区青谷四丁目五五九番地 [#地から1字上げ]野村|巳之吉《みのきち》 [#地から1字上げ]明治廿六年九月生 学歴 大正五年東京帝大農科卒業 現職 兵庫県農林課勤務水産技師 家庭及ビ近親関係 大正十一年田中家ノ次女徳子ヲ娶《めと》リ一男一女ヲ生ム。長女ハ三歳ノ時死亡。妻徳子ハ昭和十年流感ニテ死亡。ツイデ十一年長男モ十三歳ニテ死亡ス。両親ハ早ク世ヲ去リ、妹一人アリ、太田家ニ嫁シ、東京ニ住居ス  以上 [#ここで罫囲み終わり] [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 台紙の裏に本人自筆のペン字でこう云う事項を記載した手札型の写真が、幸子の女学校時代の同窓である陣場《じんば》夫人から郵送されて来たのは三月の下旬頃のことであった。幸子はそれを受け取る迄《まで》はつい忘れていたのであったが、そう云えば去年、ちょうど瀬越との間の話が停頓《ていとん》していた十一月の末の或《あ》る日、大阪の桜橋|交叉点《こうさてん》のところで、陣場夫人に行き遇《あ》って二三十分立ち話をした時に、雪子の噂《うわさ》が出、ふうん、そんならあの妹さん、まだ結婚しやはれへんの、と云