ころをひかれて記憶にとどまっているのが多いがわけてこの御うたを読むと、みなせがわの川上をみわたしたけしきのさまがあわれにもまたあたたかみのあるなつかしいもののようにうかんでくる。それでいて関西の地理に通じないころは何処か京都の郊外であるらしくかんがえながらはっきりところをつきとめようという気もなかったのであるがその御殿の遺跡は山城《やましろ》と摂津《せっつ》のくにざかいにちかい山崎の駅から十何丁かの淀川《よどがわ》のへりにあって今もそのあとに後鳥羽院を祭った神社が建っていることを知ったのはごく最近なのである。で、そのみなせのみやをとぶらうのがこの時刻から出かけるのにはいちばん手頃《てごろ》であった。やまざきまでなら汽車で行ってもすぐだけれども阪急で行って新京阪《しんけいはん》にのりかえればなお訳はない。それにちょうどその日は十五夜にあたっていたのでかえりに淀川べりの月を見るのも一興である。そうおもいつくとおんなこどもをさそうような場所がらでもないからひとりでゆくさきも告げずに出かけた。  山崎は山城の国|乙訓《おとくに》郡にあって水無瀬の宮趾《みやあと》は摂津の国三島郡にある。されば大阪の方からゆくと新京阪の大山崎でおりて逆に引きかえしてそのおみやのあとへつくまでのあいだにくにざかいをこすことになる。わたしはやまざきというところは省線の駅の附近をなにかのおりにぶらついたことがあるだけでこのさいごくかいどうを西へあるいてみるのは始めてなのである。すこしゆくとみちがふたつにわかれて右手へ曲ってゆく方のかどに古ぼけた石の道標が立っている。それは芥川《あくたがわ》から池田を経て伊丹《いたみ》の方へ出るみちであった。荒木村重《あらきむらしげ》や池田|勝入斎《しょうにゅうさい》や、あの『信長記《しんちょうき》』にある戦争の記事をおもえばそういうせんごくの武将どもが活躍したのは、その、いたみ、あくたがわ、やまざきをつなぐ線に沿うた地方であっていにしえはおそらくそちらの方が本道であり、この淀川のきしをぬってすすむかいどうは舟行《しゅうこう》には便利だったであろうが蘆荻《ろてき》のおいしげる入り江や沼地が多くってくがじの旅にはふむきであったかも知れない。そういえば江口の渡しのあとなどもいま来るときに乗ってきた電車の沿線にあるのだときいている。げんざいではその江口も大大阪《だいおおさか》