のところに金|屏風《びょうぶ》がかこってありましてやはり島田に結った若い女中がそのまえに立って舞い扇をひらひらさせながら舞っておりますのが顔だちまでは見えませぬけれどもしぐさはよく見えるのでござります、座敷の中にはまだその時分は電燈が来ていなかったものかそれとも風情《ふぜい》をそえるためにわざとそうしてありましたものか燭台《しょくだい》の灯《ひ》がともっていて、その穂が始終ちらちらしてみがきこんだ柱や欄杆《らんかん》や金屏風にうつっております。泉水のおもてには月があかるく照っていまして汀《みぎわ》に一|艘《そう》の舟がつないでありましたのは多分その泉水は巨椋《おぐら》の池の水をみちびいたものなのでここからすぐに池の方へ舟で出られるようになっているのでござりましょう、で、ほどなく舞いが終りますと腰元どもがお銚子《ちょうし》を持って廻ったりしておりましたが、こちらから見たぐあいでは腰元どもの立ちいふるまいのうやうやしい様子からどうもその琴をひいた女が主人らしゅうござりましてほかの人たちはそのお相手をしているようなのでござりました。なにしろ今から四十何年の昔のことでござりましてそのころは京や大阪の旧家などでは上女中《かみじょちゅう》には御守殿《ごしゅでん》風の姿をさせ礼儀作法は申すまでもござりませぬが物好きな主人になりますと遊芸などをならわせたものでござりますから、このやしきもいずれそういう物持の別荘なのであの琴をひいた女はこの家の御寮人《ごりょうにん》でござりましょう、しかしその人は座敷のいちばん奥の方にすわっておりまして生憎《あいにく》とすすきや萩のいけてあるかげのところに※[#「兵」の「丘」に代えて「白」、第3水準1-14-51]《かお》がかくれておりますのでわたくしどもの方からはその人柄が見えにくいのでござりました、父はどうかしてもっとよく見ようとしているらしく生垣に沿うてうろうろしながら場所をあっちこっち取りかえたりしましたけれどもどうしても生け花が邪魔になるような位置にあるのでござります、が、髪のかっこう、化粧の濃さ、着物の色あいなどから判じてまだそれほどの年の人とは思われないのでござりまして、殊《こと》にその声のかんじが若うござりました、だいぶん隔たっておりましたから何を話しているのやら意味はきき取れませなんだがその人のこえばかりがきわだってよく徹《とお》りまし