の堤をあるきながら子供にこんなことをいってきかせても分るまいけれどもいまにお前も成人するときがくるのだからよく己《おれ》のいったことをおぼえていてそのときになっておもい出してみてくれ、己もお前を子供だと思わずに大人《おとな》にきいてもらうつもりではなしをするとそういってそれをいうときはいつもたいへん真顔《まがお》になって、どうかすると自分とおなじ年ごろの朋輩《ほうばい》を相手にしているようなもののいいかたをするのでござりました。そんな場合父はあの別荘の女あるじのことを「あのお方」といったり「お遊様《ゆうさま》」といったりしてお遊さまのことをわすれずにいておくれよ、己がこうして毎年おまえをつれてくるのはあのお方の様子をお前におぼえておいてもらいたいからだと涙ぐんだこえでいうのでござりました。わたくしはまだ父のいうことがじゅうぶんには会得《えとく》できませなんだがそれでも子供は好奇心が強うござりますし父の熱心にうごかされて一生懸命に聴《き》こう聴こうといたしましたのでこうなんとなく気分がつたわってまいりましておぼろげにわかったようなかんじがしたのでござります。で、そのお遊さまという人はもと大阪の小曾部《こそべ》という家のむすめでござりましてそれが粥川《かゆかわ》という家へ器量のぞみで貰《もら》われて行きましたのが十七のとしだったそうにござります。ところが四、五年しましてから御亭主に死に別れまして二十二、三のとしにはもう若後家《わかごけ》になっていたのでござります。もちろん今の時節ならばそんなとしから後家をたてとおす必要もござりませぬし世間もだまって捨てておくはずはござりませぬけれどもそのころは明治初年のことで旧幕時代の習慣が残っておりましたし、実家の方にも嫁入り先の粥川の方にもやかましい老人がいたということでござりますし、ことに亡くなった御亭主とのあいだに男の子が一人ありましたそうにござりますからなかなか再縁というようなことは許されなんだものとみえます。それにお遊さんは望まれて行ったくらいでござりますから姑《しゅうとめ》にも御亭主にもたいへん大事にされまして実家にいましたときよりもずっと我がままにのんびりとくらしておりましたので後家になりましてからもときおり大勢の女中をつれて物見遊山《ものみゆさん》に出かけていくという風でそういう贅沢《ぜいたく》は自由に出来たのだそうにござ