ざかいをこすことになる。わたしはやまざきというところは省線の駅の附近をなにかのおりにぶらついたことがあるだけでこのさいごくかいどうを西へあるいてみるのは始めてなのである。すこしゆくとみちがふたつにわかれて右手へ曲ってゆく方のかどに古ぼけた石の道標が立っている。それは芥川《あくたがわ》から池田を経て伊丹《いたみ》の方へ出るみちであった。荒木村重《あらきむらしげ》や池田|勝入斎《しょうにゅうさい》や、あの『信長記《しんちょうき》』にある戦争の記事をおもえばそういうせんごくの武将どもが活躍したのは、その、いたみ、あくたがわ、やまざきをつなぐ線に沿うた地方であっていにしえはおそらくそちらの方が本道であり、この淀川のきしをぬってすすむかいどうは舟行《しゅうこう》には便利だったであろうが蘆荻《ろてき》のおいしげる入り江や沼地が多くってくがじの旅にはふむきであったかも知れない。そういえば江口の渡しのあとなどもいま来るときに乗ってきた電車の沿線にあるのだときいている。げんざいではその江口も大大阪《だいおおさか》の市内にはいり山崎も去年の京都市の拡張以来大都会の一部にへんにゅうされたけれども、しかし京と大阪の間は気候風土の関係が阪神間のようなわけには行かないらしく田園都市や文化住宅地がそうにわかにはひらけそうにもおもえないからまだしばらくは草ぶかい在所《ざいしょ》のおもむきをうしなうことがないであろう。忠臣蔵にはこの近くのかいどうに猪《いのしし》や追《お》い剥《は》ぎが出たりするように書いてあるからむかしはもっとすさまじい所だったのであろうがいまでもみちの両側にならんでいる茅《かや》ぶき屋根の家居《いえい》のありさまは阪急沿線の西洋化した町や村を見馴《みな》れた眼にはひどく時代がかっているようにみえる。「なき事によりてかく罪せられたまふをからくおぼしなげきて、やがて山崎にて出家せしめ給ひて」と、『大鏡《おおかがみ》』では北野の天神が配流《はいる》のみちすがら此処《ここ》で仏門に帰依《きえ》せられて「きみがすむやどの梢《こずえ》をゆく/\と」というあの歌をよまれたことになっている。さようにこの土地はずいぶん古い駅路なのである。たぶん平安のみやこが出来たのとおなじころに設けられた宿場《しゅくば》かもしれない。わたしはそんなことをかんがえながら旧幕の世の空気がくらい庇《ひさし》のかげにただよっ