連絡していたのではないかと想像される。それに、ここから南の方にあたって恐らくこの神社のうしろ数丁ぐらいのところには淀川がながれているはずではないか。そのながれはいま見えないけれどもむこうぎしの男山八幡《おとこやまはちまん》のこんもりした峰があいだに大河をさしはさんでいるようでもなくつい眉《まゆ》の上へ落ちかかるように迫っている。わたしは眼をあげてその石清水《いわしみず》の山かげを仰ぎ、それとさしむかいに神社の北の方にそびえている天王山のいただきをのぞんだ。かいどうを歩いているときは気が付かなかったが此処へ来てから四方をながめると、わたしは今南北の山が屏風《びょうぶ》のように空をかぎっている谷あいの鍋《なべ》の底のような地点に立っている。なるほど、王朝の或る時代に山崎に関所が設けられていたことも西から京へ攻め入るのにこのあたりが要害の地であったこともこういう山河の形勢を見るとおのずから合点《がてん》されるのである。ひがしの方の京都を中心とする山城の平野と西の方の大阪を中心とする摂河泉《せっかせん》の平野とがここで狭苦しくちぢめられていてそのあいだをひとすじの大河がながれてゆく。されば京と大阪とは淀川でつながっているけれども気候風土はここを境界にしてはっきりと変る。大阪の人の話をきくと京都に雨が降っていても山崎から西は晴れていることがあり冬など汽車が山崎を過ぎると急に温度の下ることが分るという。そういえばところどころに竹藪《たけやぶ》の多い村落のけしき、農家の家のたてかた、樹木の風情《ふぜい》、土の色など、嵯峨《さが》あたりの郊外と似通《にかよ》っていてまだここまでは京都の田舎《いなか》が延びて来ているという感じがする。  わたしはやしろの境内を出るとかいどうの裏側を小径《こみち》づたいにふたたびみなせ川の川のほとりへ引き返して堤の上にあがってみた。川上の方の山のすがた、水のながめは、七百年の月日のあいだに幾分かちがって来たであろうがそれでも院の御うたを拝してひそかに胸にえがいていたものといま眼前にみる風光とはおおよそ似たり寄ったりであった。わたしはだいたいこういう景のところであろうとつねから考えていたのである。それは峨々《がが》たる峭壁《しょうへき》があったり岩を噛《か》む奔湍《ほんたん》があったりするいわゆる奇勝とか絶景とかの称にあたいする山水ではない。なだらかな丘と