あるが、さびをふくんだ、熟練を積んだこえではある。とにかく謡いぶりが落ちついているところをみると相当に年数をかけているのではあろう。しかしそんなことよりも見も知らぬ人のまえでこんな工合《ぐあい》に気やすくうたい出してうたうと直《す》ぐにその謡《うた》っているものの世界へ己《おの》れを没入させてしまい何の雑念にも煩《わずら》わされないといった風な飄逸《ひょういつ》な心境がきいているうちに自然とこちらへのりうつるので、わざは上達しないでもこういう心境をやしなうことが出来るものならば遊芸をならうということも徒爾《とじ》ではないように思われてくる。いや、結構でございました、おかげさまでいい保養をしましたというとせわしそうに息をはずませて先ず乾《かわ》いた口をうるおしてからまた盃をわたしにさしてさあいま一つおかさねという。まぶかに被《かぶ》っている鳥打《とりうち》帽子のひさしが顔の上へ蔭をつくっているので月あかりでは仔細《しさい》にたしかめにくいけれどもとしはわたしと同年輩ぐらいであろう、痩《や》せた、小柄な体に和服の着流《きなが》しで通行《みちゆき》のように仕立てたコートを着ている。失礼ながら大阪からおいでになりましたかと言葉のふしぶしに京よりは西のなまりがあるのでたずねると、さようでござります、大阪の南の方にささやかな店を持ちまして骨董《こっとう》をあきなっておりますという。散策のおかえりがけででもありますかというと、いえ、いえ、今夜の月をみるつもりで夕刻から出て来たのでござりますが例年ならば京阪電車で出かけますところをことしは廻りみちをして、新京阪へ乗りまして、このわたしをわたりましたのが仕合わせでござりましたと腰のあいだから煙草《タバコ》入れの筒を抜き取って煙管《キセル》にきざみをつめながらいうのである。と仰っしゃるとまいねん何処《どこ》ぞ場所をさだめて月見にいらっしゃるのですか。さようでござります、と、そういってからたばこに火をつけるあいだ黙っていてまいねんわたくしは巨椋《おぐら》の池へ月見にまいるのでござりますがこよいはからずもこのところを通りましてこの川中の月をみることが出来ましたのは何よりでござります、それと申しますのもあなたさまが此処にやすんでいらっしゃるのをお見かけいたしましたばかりになるほどこれは恰好《かっこう》な場所だと気がつきましたようなわけでひとえにあ