た時、 「これから渡しを渡って、冬木《ふゆぎ》の米市《こめいち》で名代のそばを御馳走《ごちそう》してやるかな。」 こう云って、父は私を境内《けいだい》の社殿の後《うしろ》の方へ連れて行った事がある。其処には小網町や小舟町辺の掘割と全く趣の違った、幅の狭い、岸の低い、水の一杯にふくれ上っている川が、細かく建て込んでいる両岸の家々の、軒と軒とを押し分けるように、どんよりと物憂《ものう》く流れて居た。小さな渡し船は、川幅よりも長そうな荷足りや伝馬《てんま》が、幾艘《いくそう》も縦に列《なら》んでいる間を縫いながら、二た竿《さお》三竿ばかりちょろちょろと水底《みなそこ》を衝《つ》いて往復して居た。 私はその時まで、たびたび八幡様へお参りをしたが、未だ嘗《かつ》て境内の裏手がどんなになっているか考えて見たことはなかった。いつも正面の鳥居の方から社殿を拝むだけで、恐らくパノラマの絵のように、表ばかりで裏のない、行き止まりの景色のように自然と考えていたのであろう。現在|眼《め》の前にこんな川や渡し場が見えて、その先に広い地面が果てしもなく続いている謎《なぞ》のような光景を見ると、何となく京都や大阪よりももっと東京をかけ離れた、夢の中で屡々《しばしば》出|逢《あ》うことのある世界の如く思われた。 それから私は、浅草の観音堂の真うしろにはどんな町があったか想像して見たが、仲店《なかみせ》の通りから宏大《こうだい》な朱塗りのお堂の甍《いらか》を望んだ時の有様ばかりが明瞭《めいりょう》に描かれ、その外の点はとん[#「とん」に傍点]と頭に浮かばなかった。だんだん大人になって、世間が広くなるに随《したが》い、知人の家を訪ねたり、花見|遊山《ゆさん》に出かけたり、東京市中は隈《くま》なく歩いたようであるが、いまだに子供の時分経験したような不思議な別世界へ、ハタリと行き逢うことがたびたびあった。 そう云う別世界こそ、身を匿《かく》すには究竟《くっきょう》であろうと思って、此処彼処《ここかしこ》といろいろに捜し求めて見れば見る程、今迄通ったことのない区域が到《いた》る処《ところ》に発見された。浅草橋と和泉《いずみ》橋は幾度も渡って置きながら、その間にある左衛門橋を渡ったことがない。二長町《にちょうまち》の市村座へ行くのには、いつも電車通りからそばやの角を右へ曲ったが、あの芝居の前を真っ直ぐに