期に迫っているらしいことは、木村がよほど以前からそれとなく豫言していたが、私も、そして恐らくは敏子も、そういうことに勘の鋭い木村の直覚を、なまじな医師の判断よりもアテにしていた。  それにしても、私の体質に淫蕩の血が流れていたことは否み得ないとして、夫の死をさえたくらむような心が潜《ひそ》んでいたとは、どうしたわけであろう。いったいそんな心が、いつ、どんな隙に食い込んだのであろう。亡くなった夫のような、ひねくれた、変質的な、邪悪な精神で、執拗《しつよう》にジリジリと捻《ね》じ曲げられたら、どんな素直な心でもしまいには曲って来るのであろうか。そうではなくて、私の場合は、昔気質《むかしかたぎ》な、封建的な女と見えたのは環境や父母の躾のせいで、本来は恐ろしい心の持ち主だったのであろうか。このことはもっとよく考えてみなければどちらとも云えない。と同時に、終局においてやはり私は亡くなった夫に忠実を尽したことになるのである、夫は彼の希望通りの幸福な生涯を送ったのであると、云えるような気がしないでもない。  敏子のことや木村のことも、今のところ疑問の点がたくさんある。私が木村と会合の場所に使った大阪の宿は、「ドコカナイデショウカト木村サンガ云ウカラ」敏子が「オ友達ノ或ルアプレノ人」に聞いて教えてやったのだというけれども、ほんとうにそれだけが真実であろうか。敏子もあの宿を誰かと使ったことがあり、今も使っているのではないであろうか。  木村の計画では、今後適当な時期を見て彼が敏子と結婚した形式を取って、私と三人でこの家に住む、敏子は世間体を繕うために、甘んじて母のために犠牲になる、と、いうことになっているのであるが。……… 底本:「鍵」中公文庫、中央公論社    1973(昭和48)年12月10日初版発行    1983(昭和58)年12月25日6刷発行 初出:「中央公論」中央公論社    1956(昭和31)年1月、5月〜12月 入力:kompass 校正:酒井裕二 2016年5月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。