言也」と云うのが南勝房法語の建て前であって、上人が天狗になったことは、上人自身としてはその信念を実行に移した迄である。      ○ 増福院に蔵する所の上人の消息文は「蓮華谷御庵室」へ宛てたもので、鷲峰師の説明に依ると、此の宛て名の主は所謂「高野|非事吏《ひじり》」の祖明遍上人(少納言入道信西末子)のことであるという。「近日十津川郷人来[#二]当寺領大滝村[#一]懸[#レ]札申云当村并花園村等吉野領十津川之内也仍令[#レ]懸[#二]此※[#「片+旁」、第4水準2-80-16]示之札[#一]自今以後者可[#レ]勤[#二]十津川之公事[#一]云々此条自由之次第不思議之事候」という書き出しで、全文を掲げるのは煩わしいから省略するが、要するに吉野僧の暴状を見て憤懣の思いを明遍上人に訴えたものである。覚海伝に拠れば此の事のあったのは建保六年正月より承久元年八月に至る間で、吉野の春賢僧正が郷民を引率して、高野山の所領に闖入し、花園の庄大滝の郷に吉野領と云う札を立て、「並於[#二]御廟橋下[#一]標[#二]※[#「片+旁」、第4水準2-80-16]芳野領[#一]」とあるから、今の奥の院の大師霊廟の前にある無明の橋のことであろう、あの辺にも亦高札を立てた。伝には「爾来以[#二]精進法界之霊場[#一]為[#二]殺生汚穢之猟地[#一]幾許狼藉不道不[#レ]遑[#二]枚挙[#一]也」と記し、消息の方には「剰殺[#二]数十鹿[#一]剥[#レ]皮」と記し、「寺家之歎何事過[#レ]之候哉人守[#二]忍辱之地[#一]無[#二]弓箭[#一]之間十津川之住人知[#二]如[#レ]此子細[#一]動及[#二]狼藉[#一]候者也」とも云っている。然らば当時高野山には僧兵というものがなかったのであろうか。紀伊続風土記は曰く、「古老伝に吉野悪僧等の企にて此の山の領地を劫奪し大師の霊跡を涜さんとす、時に覚海検校深重の悲誓を発て修羅即遮那の観門を凝し魔即法海の行解を務め其の類に同じて山家を鎮護し、大師佛法の運を龍花の春に達せんとして大勢勇猛の羽翼と化し、白日に飛去すという」と。覚海伝には、此の時(承久元年八月五日)三千の衆徒が大秘伝法の絶滅を悲しみ山を下ろうとしたのを、上人が強いておしとどめ、自分が炎魔の庁へ行って訴えるからもう一日待てと云ったと記してあって、示寂したのはそれより更に六年の後、貞応二年癸未八