半ニ此前ヲ通ル間不[#レ]能[#レ]応[#レ]招云々」 ○志津ヶ岳合戦事小須賀九兵衛話には清洲会議を安土に作る、当時「挨拶及相違て柴田と太閤互に怒をふくむ其時丹羽長秀太閤と一処に寐ころひ有しか長秀そと足にて太閤に心を付太閤被心得其夜大坂へ御かへり云々」佐久間軍記には「秀吉其夜屡小便ニヲクル」とあり然れどもこれらのこと甫庵太閤記等には見えず不審也 ○蒲生氏郷後室の墓は今京都の百万遍智恩寺境内に在り、寛永十八年五月九日於[#二]京都[#一]病没、行年八十一歳、法名相応院殿月桂凉心英誉清熏大禅定尼、秀吉此の後室の容顔秀麗なるを知り氏郷の死後迎えて妾となさんとしたれども後室これを聴かず、ために蒲生家は会津百万石より宇都宮十八万石に移さる、委しくは氏郷記近江日野町誌を可[#レ]見 ○三味線は永禄年中琉球より渡来したること通説なれどもこれを小唄に合わせて弾きたるは寛永頃より始まる由高野辰之博士の日本歌謡史に記載あり尤も天文年中既に遊女の手に弄ばれたること室町殿日記に見え好事家は早くより流行歌に用いたる趣同じく右歌謡史に委し、此の物語の盲人の如きも好事家の一人たりし歟、予が三絃の師匠菊原検校は大阪の人にして今は殆ど廃絶したる古き三味線の組歌を心得られたるが其の中に閑吟集に載せたる「木幡山路に行きくれて月を伏見の草枕」の歌長崎のサンタマリヤの歌其の他珍しき歌詞少からず予も嘗てこれを聞きたることあり詞は短きようなれども同じ句を幾度も繰り返して唄い且三味線の合いの手は詞よりも数倍長し曲に依りては殆ど琵琶をきく如き心地す ○かんどころのしるしに「いろは」を用いることはいつの頃より始まりしか不[#レ]知今も浄瑠璃の三味線ひきは用[#レ]之由予が友人にして斯道に明かなる九里道柳子の語る所也、本文挿絵は道柳子図して予に贈らる [#2字下げ]于時昭和辛未年夏日 [#地から1字上げ]於高野山千手院谷しるす 底本:「盲目物語」中公文庫、中央公論新社    1993(平成5)年5月10日初版発行 底本の親本:「盲目物語」中央公論社    1932(昭和7)年2月 初出:「中央公論」    1931(昭和6)年9月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:kompass 校正:酒井裕二 2016年3月2