の遊戯を中止する模様がなかったかえって二三年後には教える方も教えられる方も次第に遊戯の域《いき》を脱して真剣《しんけん》になった。春琴の日課は午後二時頃に靱《うつぼ》の検校の家へ出かけて三十分ないし一時間稽古を授かり帰宅後日の暮れまで習って来たものを練習する。さて夕食を済ませてから時々気が向いた折に佐助を二階の居間へ招いて教授するそれがついには毎日欠かさず教えるようになりどうかすると九時十時に至ってもなお許さず、「佐助、わてそんなこと教《お》せたか」「あかん、あかん、弾けるまで夜通しかかったかて遣《や》りや」と激しく叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]《しった》する声がしばしば階下の奉公人共を驚《おどろ》かした時によるとこの幼い女師匠は「阿呆《あほう》、何で覚えられへんねん」と罵《のの》しりながら撥《ばち》をもって頭を殴《なぐ》り弟子がしくしく泣き出すことも珍《めずら》しくなかった      ○ 昔は遊芸を仕込むにも火の出るような凄《すさま》じい稽古をつけ往々《おうおう》弟子に体刑《たいけい》を加えることがあったのは人のよく知る通りである本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形|浄瑠璃《じょうるり》の血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、摂津大掾《せっつのだいじょう》亡き後の名人三代目|越路太夫《こしじだゆう》の眉間《みけん》には大きな傷痕《きずあと》が三日月型に残っていたそれは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるというまた文楽座の人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある玉次郎若かりし頃「阿波《あわ》の鳴門《なると》」で彼の師匠の大名人吉田玉造が捕《と》り物《もの》の場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、その時キット極《き》まるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない「阿呆め」というなり立廻りに使っていた本身《ほんみ》の刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである。しかも玉次郎を殴《なぐ》った玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で真赤《まっか》に染《そ》まった。彼はその血だらけになって砕《くだ》け飛んだ人形の足を師匠に請《こ》うて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り