いつまで曖昧《あいまい》な状態に置いては奉公人|共《ども》の示しが付かずせめて一|軒《けん》の家に同棲《どうせい》させるという方法を取ったので春琴自身もその程度ならあえて不服はなかったのであろう。もちろん佐助は淀屋橋へ行ってからも少しも前と異った扱《あつか》いはされなかったやはりどこまでも手曳きであったその上検校が死んだので再び春琴に師事することになり今は誰に遠慮《えんりょ》もなく「お師匠様」と呼び「佐助」と呼ばれた。春琴は佐助と夫婦らしく見られるのを厭《いと》うこと甚《はなはだ》しく主従の礼儀《れいぎ》師弟の差別を厳格にして言葉づかいの端々《はしばし》に至るまでやかましく云い方を規定したまたまそれに悖《もと》ることがあれば平身低頭して詑《あや》まっても容易に赦《ゆる》さず執拗《しつよう》にその無礼を責めた。故《ゆえ》に様子を知らない新参の入門者は二人の間を疑う由《よし》もなかったというまた鵙屋の奉公人共はあれでこいさんはどんな顔をして佐助どんを口説《くど》くのだろうこっそり立ち聴《ぎ》きしてやりたいと蔭口《かげぐち》を云ったというなぜ春琴は佐助を待つことかくのごとくであったか。ただし大阪は今日でも婚礼《こんれい》に家柄《いえがら》や資産や格式などを云々《うんぬん》すること東京以上であり元来町人の見識の高い土地であるから封建《ほうけん》の世の風習は思いやられる従って旧家の令嬢《れいじょう》としての衿恃《きょうじ》を捨てぬ春琴のような娘が代々の家来筋に当る佐助を低く見下《みくだ》したことは想像以上であったであろう。また盲目の僻《ひが》みもあって人に弱味を見せまい馬鹿《ばか》にされまいとの負けじ魂《だましい》も燃えていたであろう。とすれば佐助を我が夫として迎《むか》えるなど全く己れを侮辱《ぶじょく》することだと考えたかも知れぬよろしくこの辺の事情を察すべきであるつまり目下《めした》の人間と肉体の縁を結んだことを恥《は》ずる心があり反動的によそよそしくしたのであろう。しからば春琴の佐助を見ること生理的必要品以上に出でなかったであろうか多分意識的にはそうであったかと思われる      ○ 伝に曰《いわ》く「春琴居常|潔癖《けっぺき》にしていささかにても垢《あか》着きたる物を纏《まと》わず、肌着《はだぎ》類は毎日|取換《とりか》えて洗濯《せんたく》を命じたりき。また朝