の云うがままに仕送ったけれども父親が死んで兄が家督《かとく》を継いでからはそうそう云うなりにもならなかった。今日でこそ有閑《ゆうかん》婦人の贅沢はさまで珍しくないようなものの昔は男子でもそうは行かぬ裕福《ゆうふく》な家でも堅儀《かたぎ》な旧家ほど衣食住の奢《おご》りを慎《つつし》み僭上《せんしょう》の誹《そしり》を受けないようにし成り上り者に伍《ご》するのを嫌《きら》った春琴に奢侈《しゃし》を許したのは外《ほか》に楽しみのない不具の身を憐れんだ親の情であったのだが、兄の代になるととかくの批難《ひなん》が出て最大限度月に幾何《いくばく》と額をきめられそれ以上の請求には応じてくれないようになった彼女の吝嗇もそういう事が多分に関係しているらしい。しかしなおかつ生活を支えて余りある金額であったから琴曲の教授などはどうでもよかったに違いなく弟子に対して鼻息の荒かったのも当然である。事実春琴の門を叩《たた》く者は幾人と数えるほどで寂々寥々《じゃくじゃくりょうりょう》たるものであったさればこそ小鳥道楽などに耽《ふけ》っている暇《ひま》があったのであるただし春琴が生田流の琴においても三絃においても当時大阪第一流の名手であったことは決して彼女の自負のみにあらず公平な者は皆《みな》認めていた春琴の傲慢《ごうまん》を憎む者といえども心中|私《ひそ》かにその技を妬《そね》みあるいは恐れていたのである作者の知っている老芸人に青年の頃《ころ》彼女の三絃をしばしば聴いたという者があるもっともこの人は浄るりの三味線弾きで流儀は自ら違うけれども近年地唄の三味線で春琴のごとき微妙《びみょう》の音を弄《ろう》するものを他に聴いたことがないと云うまた団平が若い頃にかつて春琴の演奏を聞き、あわれこの人男子と生れて太棹《ふとざお》を弾きたらんには天晴《あっぱ》れの名人たらんものをと嘆《たん》じたという団平の意太棹は三絃芸術の極致にしてしかも男子にあらざればついに奥義《おうぎ》を究むる能《あた》わずたまたま春琴の天稟《てんぴん》をもって女子に生れたのを惜《お》しんだのであろうか、そもそもまた春琴の三絃が男性的であったのに感じたのであろうか。前掲《ぜんけい》の老芸人の話では春琴の三味線を蔭で聞いていると音締《ねじめ》が冴《さ》えていて男が弾いているように思えた音色も単に美しいのみではなくて変化に富み時には沈痛《ちんつ