ろうとは思わなかったという。するとこの仏さまは無縁《むえん》になっているのですかというと、いえ無縁という訳ではありませぬ萩《はぎ》の茶屋の方に住んでおられる七十|恰好《かっこう》の老婦人が年に一二度お参りに来られます、そのお方はこのお墓へお参りをされて、それから、それ、ここに小さなお墓があるでしょうと、その墓の左脇《ひだりわき》にある別な墓を指し示しながらきっとそのあとでこのお墓へも香華《こうげ》を手向《たむ》けて行かれますお経料などもそのお方がお上げになりますという。寺男が示した今の小さな墓標の前へ行って見ると石の大きさは琴女の墓の半分くらいである。表面に真誉琴台正道信士と刻し裏面に俗名温井佐助、号琴台、鵙屋春琴門人、明治四十年十月十四日歿、行年八拾三歳とある。すなわちこれが温井検校の墓であった。萩の茶屋の老婦人というのは後に出て来るからここには説くまいただこの墓が春琴の墓にくらべて小さくかつその墓石に門人である旨《むね》を記して死後にも師弟の礼を守っているところに検校の遺志がある。私は、おりから夕日が墓石の表にあかあかと照っているその丘《おか》の上に彳《たたず》んで脚下にひろがる大大阪市の景観を眺《なが》めた。けだしこのあたりは難波津《なにわづ》の昔からある丘陵《きゅうりょう》地帯で西向きの高台がここからずっと天王寺《てんのうじ》の方へ続いている。そして現在では煤煙《ばいえん》で痛めつけられた木の葉や草の葉に生色がなく埃《ほこり》まびれに立《た》ち枯《か》れた大木が殺風景《さっぷうけい》な感じを与えるがこれらの墓が建てられた当時はもっと鬱蒼《うっそう》としていたであろうし今も市内の墓地としてはまずこの辺が一番|閑静《かんせい》で見晴らしのよい場所であろう。奇《く》しき因縁《いんねん》に纏《まと》われた二人の師弟は夕靄《ゆうもや》の底に大ビルディングが数知れず屹立《きつりつ》する東洋一の工業都市を見下しながら、永久にここに眠《ねむ》っているのである。それにしても今日の大阪は検校が在りし日の俤《おもかげ》をとどめぬまでに変ってしまったがこの二つの墓石のみは今も浅からぬ師弟の契《ちぎ》りを語り合っているように見える。元来温井検校の家は日蓮宗《にちれんしゅう》であって検校を除く温井一家の墓は検校の故郷《こきょう》江州《ごうしゅう》日野町の某寺にある。しかるに検校が父祖代々の