それを見ると生前検校がまめまめしく師に事《つか》えて影《かげ》の形に添《そ》うように扈従《こしょう》していた有様が偲《しの》ばれあたかも石に霊《れい》があって今日もなおその幸福を楽しんでいるようである。私は春琴女の墓前に跪《ひざまず》いて恭《うやうや》しく礼をした後検校の墓石に手をかけてその石の頭を愛撫《あいぶ》しながら夕日が大市街のかなたに沈《しず》んでしまうまで丘の上に低徊《ていかい》していた      ○ 近頃《ちかごろ》私の手に入れたものに「鵙屋春琴伝」という小冊子がありこれが私の春琴女を知るに至った端緒《たんちょ》であるがこの書は生漉《きず》きの和紙へ四号活字で印刷した三十枚ほどのもので察するところ春琴女の三回|忌《き》に弟子の検校が誰《だれ》かに頼んで師の伝記を編ませ配り物にでもしたのであろう。されば内容は文章体で綴《つづ》ってあり検校のことも三人|称《しょう》で書いてあるけれども恐《おそ》らく材料は検校が授けたものに違いなくこの書のほんとうの著者は検校その人であると見て差支《さしつか》えあるまい。伝によると「春琴の家は代々鵙屋|安左衛門《やすざえもん》を称し、大阪道修町に住して薬種商を営む。春琴の父に至りて七代目|也《なり》。母しげ女は京都|麩屋町《ふやちょう》の跡部《あとべ》氏の出にして安左衛門に嫁《か》し二男四女を挙ぐ。春琴はその第二女にして文政《ぶんせい》十二年五月二十四日をもって生《うま》る」とある。また曰《いわ》く、「春琴幼にして穎悟《えいご》、加うるに容姿端麗《ようしたんれい》にして高雅《こうが》なること譬《たと》えんに物なし。四歳の頃より舞《まい》を習いけるに挙措《きょそ》進退の法|自《おのずか》ら備わりてさす手ひく手の優艶《ゆうえん》なること舞妓《まいこ》も及ばぬほどなりければ、師もしばしば舌を巻きて、あわれこの児《こ》、この材と質とをもってせば天下に嬌名《きょうめい》を謳《うた》われんこと期して待つべきに、良家の子女に生れたるは幸とや云わん不幸とや云わんと呟《つぶや》きしとかや。また早くより読み書きの道を学ぶに上達すこぶる速《すみや》かにして二人の兄をさえ凌駕《りょうが》したりき」と。これらの記事が春琴を視《み》ること神のごとくであったらしい検校から出たものとすればどれほど信を置いてよいか分らないけれども彼女の生れつきの容貌《