食べて行かなければならない者が素人《しろうと》のこいさんに及ばないようでは心細いぞといった。また春琴をいたわり過ぎるという批難《ひなん》があった時何をいうぞ師たる者が稽古をつけるには厳しくするこそ親切なのじゃわしがあの児を叱らぬのはそれだけ親切が足らぬのじゃあの児は天性芸道に明るく悟《さと》りが速いから捨てて置いても進む所までは進む本気で叩《たた》き込《こ》んだらばいよいよ後生《こうせい》畏《おそ》ろしい者になり本職の弟子共が困るであろう、何も結構な家に生れて世過《よす》ぎに不自由のない娘をそれほどに教え込まずとも鈍根《どんこん》の者をこそ一人前に仕立ててやろうと力瘤《ちからこぶ》を入れているのに、何という心得違いをいうぞといった      ○ 春松検校の家は靱《うつぼ》にあって道修町の鵙屋の店からは十丁ほどの距離《きょり》であったが春琴は毎日|丁稚《でっち》に手を曳《ひ》かれて稽古に通ったその丁稚というのが当時佐助と云った少年で後の温井検校であり、春琴との縁がかくして生じたのである。佐助は前に述べたごとく江州日野の産であって実家はやはり薬屋を営み彼の父も祖父も見習い時代に大阪に出て鵙屋に奉公をしたことがあるという鵙屋は実に佐助に取って累代《るいだい》の主家であった。春琴より四つ歳上で十三歳の時に始めて奉公に上ったのであるから春琴が九つの歳すなわち失明した歳に当るが彼が来た時は既に春琴の美しい瞳《ひとみ》が永久に鎖《とざ》された後であった。佐助はこのことを、春琴の瞳の光を一度も見なかったことを後年に至るまで悔《く》いていないかえって幸福であるとした。もし失明以前を知っていたら失明後の顔が不完全なものに見えたろうけれども幸い彼は彼女の容貌に何一つ不足なものを感じなかった最初から円満具足した顔に見えた。今日大阪の上流の家庭は争って邸宅《ていたく》を郊外《こうがい》に移し令嬢《れいじょう》たちもまたスポーツに親しんで野外の空気や日光に触《ふ》れるから以前のような深窓の佳人《かじん》式箱入娘はいなくなってしまったが現在でも市中に住んでいる子供たちは一般に体格が繊弱《せんじゃく》で顔の色なども概《がい》して青白い田舎《いなか》育ちの少年少女とは皮膚《ひふ》の冴《さ》え方が違う良く云えば垢抜《あかぬ》けがしているが悪く云えば病的である。これは大阪に限ったことでなく都会の