子供のように顔をしかめて、つぶやきながら三の絃《いと》を上げた。 全く彼女の身になったらば口やかましいこの老人の伽《とぎ》をするのも大概ではなかろう。老人の方では眼にも入れたいほど可愛がって、遊芸の事、割烹《かっぽう》の事、身だしなみの事、何から何まで研《みが》きをかけて、自分が死んだら何処へなりと立派な所へ縁づけられるように丹精をこめているのだけれど、そう云う時代おくれの躾《しつけ》が若い身空の女に取ってどれほどの役に立つであろう。見る物と云えば人形芝居、たべる物と云えば蕨《わらび》やぜんまい[#「ぜんまい」に傍点]の煮つけでは、お久も命がつづくまい。たまには活動も見たかろうし、洋食のビフテキもたべたいであろうに、それを辛抱しているのはさすがに京都生れであると、要はときどき感心もすれば、この女の心の作用を不思議に思うこともある。そう云えば老人は、ひところ投げ入れの活け花を覚え込ませるのに夢中であったが、それがこの頃は地唄になって、週に一度ずつ、わざわざ大阪の南の方に住んでいる或る盲人の検校《けんぎょう》の許《もと》まで二人で稽古《けいこ》に行くのである。京都にも相当の師匠はあるのに大阪流を習うというのは、それにも老人の味噌《みそ》があって、彦根|屏風《びょうぶ》の絵姿などからひねり出した理窟ででもあろうか、地唄の三味線というものは、大阪風に、膝へ載せないで弾くのがいい。どうせ今から習ったのでは上手になろう筈もないから、せめて弾く形の美しさに情趣を酌《く》みたい。若い女が畳の上へ胴を置いて、からだを少しねじらせながら弾いている姿には味わいがある、とそう云っては、お久の三味線を聞くと云うよりも眺めて楽しもうというのであった。 「さあ、そう云わないでもう一つどうぞ、………」 「何にしましょ」 「何でもいいが、なるべく僕の知っているものにして下さい」 「そんなら『ゆき』がいいだろう」 と、老人は杯を要にさした。 「『ゆき』なら要さんも聞いたことがあるだろう」 「ええ、ええ、僕の知っているのは『ゆき』と『くろかみ』ぐらいなもんです」 要はその唄を聞いているうちに、ふと思い出したことがあった。子供の時分、その頃の蔵前《くらまえ》の住居と云うのは、今の京都の西陣あたりの店の構えと同じように、表通りは間口の狭い格子《こうし》造りになっていて、奥の方が外から見たよりは