に一としお耳をそばだてるようになって、彼女が好んで繰り返すのが「ゆき」と云う曲であることを、母から聞いた折があった。それは琴唄ではあるが、時には三味線に合わせてもうたう。東京ではあの唄のことを上方唄と云うのだと、母が教えた。 そののち彼はその「ゆき」の唄をふっつり[#「ふっつり」に傍点]耳にしなかったので、忘れるともなく忘れるままに十何年かを過ごしてから、ひととせ上方見物に来て祇園《ぎおん》の茶屋で舞妓《まいこ》の舞いを見た折のこと、久しぶりに又その唄を聞くことが出来ていいしれぬなつかしさを覚えた。舞いの地をうたったのは五十を越えた老妓だったから、声にも一と通りさびがあったし、三味線の音色も鈍く、ものうく、ぼんぼん[#「ぼんぼん」に傍点]という渋いひびきで、老人がきたなく唄えと云うのはああ云う味を求めるのであろう。あの老妓のに比べれば成る程お久のは綺麗ごとに過ぎて含蓄がない。けれど昔の「福ちゃん」も矢張美しい鈴のような声でうたったのだから、要に取っては若い女の肉声の方がひとしお思い出をそそるのである。それにあのぼんぼん[#「ぼんぼん」に傍点]と云う京風の三味線よりは、お久が弾いている大阪風の三味線の、調子の高いひびきの方がいくらか琴の音をしのばせるよすがにもなる。ぜんたいこの三味線は棹《さお》が九つに折れて胴の中へ這入《はい》ってしまう別製のもので、お久と一緒に遊山《ゆさん》に行くとき、老人はこれを欠かさず持って歩くのであるが、宿屋の座敷でならまだしも、興に乗じると街道の茶店の腰掛でも、満開の花の下でも、いやがるお久を無理に促して弾かせると云う風で、去年の十三夜の月見の晩なぞ宇治川を下る船の中でやらせたのはいいが、そのためにお久よりも老人の方が風邪《かぜ》をひいて、あとで非常な熱を出したりしたことがあった。 「さあ、今度はあんたお唄いやしたら、………」 そう云ってお久は老人の前へ三味線を置いた。 「要さんは『ゆき』の文句の意味がよく分るかね」 と、何気ない体《てい》で三味線を取って調子を低く直しながら、内々老人は得意の色をつつむことが出来ないのである。東京時代に一中節の素養があるせいか、地唄のけいこはほんの近年のことだけれども、わりに巧者に弾きもすれば、唄いもして、しろうとが聞けば、とにかく一種の味わいがあった。そして当人もそれを少からず自慢にしていて、いっぱ