、女がそれを琴で唄ったり、浅香《あさか》と云う乳母がお姫様のあとを追って苦労をしたりするのなぞは、平安朝のようでもある。それでいて実際に遠いかというのに、一方では可なり通俗味もあり写実味もあって、現にこの場へ出る浅香の順礼姿と云い、彼女のとなえる御詠歌といい、この辺の人には極《きわ》めてしたしみ深いもので、今でも浅香のような姿であの歌を唄いながら行く女を往々町で見かけることが珍しくないのを思えば、関東の人が浄瑠璃劇を見るのと違って、西国の人は案外自分の身辺に近い事実のように感ずるのであろう。 「いや、これは朝顔日記なんでいけないんだね」 と、老人は何を思い出したのか突然云った。 「玉藻《たまも》の前《まえ》とか、伊勢音頭《いせおんど》とか、ああ云う物はなかなか大阪とは違っていて面白いそうだよ」 なんでも文楽あたりでは残忍であるとかみだら[#「みだら」に傍点]であるとか云う廉《かど》で禁ぜられている文句やしぐさ[#「しぐさ」に傍点]を、淡路では古典の姿を崩《くず》さず、今でもそのままにやっている、それが非常に変っていると云う話を老人は聞いて来たのであった。たとえば玉藻の前なぞは、大阪では普通三段目だけしか出さないけれども、此処では序幕から通してやる。そうするとその中に九|尾《び》の狐《きつね》が現れて玉藻の前を喰《く》い殺す場面があって、狐が女の腹を喰い破って血だらけな膓《はらわた》を咬《くわ》え出す、その膓には紅い真綿を使うのだと云う。伊勢音頭では十人|斬《ぎ》りのところで、ちぎれた胴だの手だの足だのが舞台一面に散乱する。奇抜な方では大江山の鬼退治で、人間の首よりももっと大きな鬼の首が出る。 「そういう奴を見なけりゃあ話にならない、明日《あした》の出し物は妹背山《いもせやま》だそうだから、こいつはちょっと見物《みもの》だろうよ」 「ですが朝顔日記だって、通しで見るのは始めてのせいか僕には相当面白いですよ」 要には人形使いの巧拙なぞ細かいところは分らないが、ただ文楽のと比較すると、使いかたが荒っぽく、柔かみがなく、何と云っても鄙《ひな》びた感じのあることは免れられない。それは一つには人形の顔の表情や、衣裳《いしょう》の着せ方にも依るのであろう。と云うのは、大阪のに比べて目鼻の線が何処か人間離れがして、堅く、ぎごち[#「ぎごち」に傍点]なく出来ている。立女形《