まにやっている、それが非常に変っていると云う話を老人は聞いて来たのであった。たとえば玉藻の前なぞは、大阪では普通三段目だけしか出さないけれども、此処では序幕から通してやる。そうするとその中に九|尾《び》の狐《きつね》が現れて玉藻の前を喰《く》い殺す場面があって、狐が女の腹を喰い破って血だらけな膓《はらわた》を咬《くわ》え出す、その膓には紅い真綿を使うのだと云う。伊勢音頭では十人|斬《ぎ》りのところで、ちぎれた胴だの手だの足だのが舞台一面に散乱する。奇抜な方では大江山の鬼退治で、人間の首よりももっと大きな鬼の首が出る。 「そういう奴を見なけりゃあ話にならない、明日《あした》の出し物は妹背山《いもせやま》だそうだから、こいつはちょっと見物《みもの》だろうよ」 「ですが朝顔日記だって、通しで見るのは始めてのせいか僕には相当面白いですよ」 要には人形使いの巧拙なぞ細かいところは分らないが、ただ文楽のと比較すると、使いかたが荒っぽく、柔かみがなく、何と云っても鄙《ひな》びた感じのあることは免れられない。それは一つには人形の顔の表情や、衣裳《いしょう》の着せ方にも依るのであろう。と云うのは、大阪のに比べて目鼻の線が何処か人間離れがして、堅く、ぎごち[#「ぎごち」に傍点]なく出来ている。立女形《たておやま》の顔が文楽座のはふっくらと円みがあるのに、此処のは普通の京人形やお雛《ひな》様のそれのように面長《おもなが》で、冷めたい高い鼻をしている。そして男の悪役になると、色の赤さと云い、顔立ちの気味の悪さと云い、これは又あまりに奇怪至極で、人間の顔と云うよりは鬼か化け物の顔に近い。そこへ持って来て人形の身の丈が、―――殊にその首が、大阪のよりもひときわ大きく、立役《たちやく》なぞは七つ八つの子供ぐらいはありそうに思える。淡路の人は大阪の人形は小さ過ぎるから、舞台の上で表情が引き立たない。それに胡粉《ごふん》を研《みが》いてないのがいけないと云う。つまり大阪では、成るべく人間の血色に近く見せようとして顔の胡粉をわざとつや[#「つや」に傍点]消しにするのだが、それと反対に出来るだけ研《と》ぎ出してピカピカに光らせる淡路の方では、大阪のやりかたを細工がぞんざいだと云うのである。そう云えば成る程、此処の人形は眼玉が盛んに活躍する、立役のなぞは左右に動くばかりでなく、上下にも動き、赤眼を出した