間離れがして、堅く、ぎごち[#「ぎごち」に傍点]なく出来ている。立女形《たておやま》の顔が文楽座のはふっくらと円みがあるのに、此処のは普通の京人形やお雛《ひな》様のそれのように面長《おもなが》で、冷めたい高い鼻をしている。そして男の悪役になると、色の赤さと云い、顔立ちの気味の悪さと云い、これは又あまりに奇怪至極で、人間の顔と云うよりは鬼か化け物の顔に近い。そこへ持って来て人形の身の丈が、―――殊にその首が、大阪のよりもひときわ大きく、立役《たちやく》なぞは七つ八つの子供ぐらいはありそうに思える。淡路の人は大阪の人形は小さ過ぎるから、舞台の上で表情が引き立たない。それに胡粉《ごふん》を研《みが》いてないのがいけないと云う。つまり大阪では、成るべく人間の血色に近く見せようとして顔の胡粉をわざとつや[#「つや」に傍点]消しにするのだが、それと反対に出来るだけ研《と》ぎ出してピカピカに光らせる淡路の方では、大阪のやりかたを細工がぞんざいだと云うのである。そう云えば成る程、此処の人形は眼玉が盛んに活躍する、立役のなぞは左右に動くばかりでなく、上下にも動き、赤眼を出したり青眼を吊《つ》ったりする。大阪のはこんな精巧な仕掛はありません、女形《おやま》の眼なぞは動かないのが普通ですが、淡路のは女形でも眼瞼《まぶた》が開いたり閉じたりしますと、この島の人は自慢をする。要するに芝居全体の効果から云えば大阪の方が賢いけれども、この島の人たちは芝居よりもむしろ人形そのものに執着し、ちょうど我が児を舞台に立たせる親のようないつくしみを以て、個々の姿を眺めるのであろう。ただ気の毒なのは、一方は松竹の興行であるから費用も十分に懸けられるのに、此方《こっち》は百姓の片手間仕事で、髪の飾りや着附けがいかにも見すぼらしい。深雪でも駒沢でもずいぶん古ぼけた衣裳を着ている。しかし古着好きの老人は、 「いや、衣裳は此処の方がいいよ」 と云って、あの帯は昔の呉絽《ごろう》だとか、あの小袖《こそで》は黄八丈《きはちじょう》だとか、出て来る人形の着物にばかり眼をつけて、さっきからしきりに垂涎《すいぜん》している。 「文楽だって以前はこんな風だったのが、近頃派手になったんだよ。興行のたびに衣裳を新調するのもいいが、メリンス友禅や金紗《きんしゃ》ちりめんみたいなものを使われるんじゃ、打《ぶ》ち壊《こわ》しだね。人形