の火入れが置いてあるので、始めてそれと気がついたのだが、さっきから微《かす》かに香っているのは大方あれに「梅が香」が薫《くん》じてあるのであろう。ふと、要は床脇の方の暗い隅にほのじろく浮かんでいるお久の顔を見たように覚えた。が、はっ[#「はっ」に傍点]としたのは一瞬間で、それは老人の淡路土産の、小紋の黒餅《こくもち》の小袖《こそで》を着た女形《おやま》の人形が飾ってあったのである。 涼しい風が吹き込むのと一緒にその時夕立がやって来た。早くも草葉の上をたたく大粒の雨の音が聞える。要は首を上げて奥深い庭の木の間を視つめた。いつしか逃げ込んで来た青蛙が一匹、頻《しきり》にゆらぐ蚊帳の中途に飛びついたまま光った腹を行燈の灯に照らされている。 「いよいよ降って来ましたなあ」 襖《ふすま》が明いて、五六冊の和本を抱えた人の、人形ならぬほのじろい顔が萌黄の闇の彼方《あなた》に据わった。 底本:「蓼喰う虫」新潮文庫、新潮社    1951(昭和26)年10月31日発行    1969(昭和44)年2月10日20刷改版    1987(昭和62)年11月30日53刷 初出:「大阪毎日新聞 夕刊」    1928(昭和3)年12月4日〜1929(昭和4)6月18日    「東京日日新聞 夕刊」    1928(昭和3)年12月4日〜1929(昭和4)6月19日 ※底本巻末の三好行雄氏による注解は省略しました。 入力:kompass 校正:しんじ 2019年6月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。