う少し懐炉をお入れになったら」 と、これも御持参の錫《すず》の銚子《ちょうし》を取り上げて云った。 舞台の方ではもう次の幕が開きそうなけはい[#「けはい」に傍点]なのに、夫がのんきらしく、キッカケを作ってくれないので、美佐子はさっきからじりじりしてゐた。出がけに須磨から電話があったとき、彼女は実は「自分はちっとも気が進まないのだから、芝居の方は成るたけ早く切り上げる。そして出来たら七時頃までに会いに行くようにする」と云って置いたのである。尤《もっと》も都合で分らないから、アテにしないでいてくれろとは云ったけれども、……… 「明日《あした》一日、きっと此処《ここ》が痛いだろうと思うわ」 彼女は膝頭を揉《も》んで見せた。 「幕が開くまでそこに腰かけていたらいい」 そう云いながら夫が眼交ぜで、「まあ、今直ぐ帰るとも云いかねるから」と訴えているらしいのが分ると、それが何がなしに癇《かん》に触れてならなかった。 「廊下を一と廻り運動して来たらどうかね」 と、老人が云った。 「廊下に何か面白いものでもあって?」 半分皮肉に云いかけてから、彼女は冗談に紛らしながら、 「あたしも大阪の芸術には降参しちゃったわ。たった一と幕だけでお父さん以上に降参したわ」 「ふふ」 と、お久が鼻の奥で笑った。 「どうなさる? あなた、―――」 「さあ、僕は孰方《どっち》でもいいんだが、………」 要の方は要の方で、例のあいまいな返辞をしながら、今日に限ってそうしつッこく[#「しつッこく」に傍点]「帰る帰らない」を問題にする妻の態度に、淡い不満を蔽《おお》い隠すことが出来なかった。自分も彼女が長居をしたくないことは知っている、云われないでも潮時を見て器用に切り上げるつもりだけれども、折角呼ばれて来ているものを、せめて父親の手前だけは機嫌《きげん》よくして、夫の処置に任せてくれたら、―――それくらいは夫婦らしく、気を揃《そろ》えてくれたらいいのに。 「今からだと、ちょうど時間の都合もいいし、―――」 彼女は夫の顔色には頓着《とんじゃく》なく、七宝《しっぽう》入りの両蓋《りょうぶた》の時計をキラリと胸のところで開いた。 「来たついでだから、松竹へ行って御覧にならない?」 「まあお前、要さんは面白いと云うんだから、―――」 と、老人は何処《どこ》かだだ[#「だだ」に傍点]