説なんかとても及ばない」と云っているのは、こう云うところを指すのだろうと思うと、ふと又気がかりなことが浮かんだ。今にこの幕が済んだあとで、老人がこの文句を持ち出しはしないか。「鬼が栖むか蛇が栖むかとは、昔の人は実にうまいことを云ったもんだね」と、例の口調で皆に同感を求めはしないか。この場合を想像すると居たたまらないような気がして、やっぱり妻の云うことを聴いておけばよかったと思った。 しかし一方、ややともするとその不愉快を打ち忘れて、再び舞台の表現にうっとりさせられる瞬間があった。前の幕ではひとり小春の姿にばかり心を惹《ひ》かれたのに、今度の幕では治兵衛もよし、おさんもいい。紅殻《べにがら》塗りの框《かまち》を見せた二重の上で定規《じょうぎ》を枕に炬燵《こたつ》に足を入れながら、おさんの口説《くど》きをじっと聞き入っている間の治兵衛。―――若い男には誰しもある、黄昏《たそがれ》時の色町の灯を恋いしたうそこはかとない心もち。―――太夫の語る文句の中に夕暮の描写はないようだけれども、要は何がなしに夕暮に違いないような気がして、格子の外の宵闇に蝙蝠《こうもり》の飛ぶ町のありさまを、―――昔の大阪の商人《あきゅうど》町を胸にえがいた。風通《ふうつう》か小紋ちりめんのようなものらしい着附を着ているおさんの顔だちが、人形ながら何処か小春に比べると淋《さび》しみが勝ってあでやかさに乏しいのも、そう云う男にうとまれる堅儀な町女房の感じがある。そのほか舞台一杯に暴れ廻る太兵衛も善六も、見馴《みな》れたせいか両脚のぶらんぶらんするのが前の幕ほど眼ざわりでなく、だんだん自然に見えて来るのも不思議であった。そしてこれだけの人間が、罵《ののし》り、喚《わめ》き、啀《いが》み、嘲《あざけ》るのが、―――太兵衛の如きは大声を上げてわいわい[#「わいわい」に傍点]と泣いたりするのが、―――みんな一人の小春を中心にしているところに、その女の美しさが異様に高められていた。成るほど義太夫の騒々しさも使い方に依って下品ではない。騒々しいのが却って悲劇を高揚させる効果を挙げている。……… 要が義太夫を好まないのは、何を措《お》いてもその語り口の下品なのが厭《いや》なのであった。義太夫を通じて現れる大阪人の、へんにずうずうしい、臆面のない、目的のためには思う存分な事をする流儀が、妻と同じく東京の生れである彼には