がある。そのほか舞台一杯に暴れ廻る太兵衛も善六も、見馴《みな》れたせいか両脚のぶらんぶらんするのが前の幕ほど眼ざわりでなく、だんだん自然に見えて来るのも不思議であった。そしてこれだけの人間が、罵《ののし》り、喚《わめ》き、啀《いが》み、嘲《あざけ》るのが、―――太兵衛の如きは大声を上げてわいわい[#「わいわい」に傍点]と泣いたりするのが、―――みんな一人の小春を中心にしているところに、その女の美しさが異様に高められていた。成るほど義太夫の騒々しさも使い方に依って下品ではない。騒々しいのが却って悲劇を高揚させる効果を挙げている。……… 要が義太夫を好まないのは、何を措《お》いてもその語り口の下品なのが厭《いや》なのであった。義太夫を通じて現れる大阪人の、へんにずうずうしい、臆面のない、目的のためには思う存分な事をする流儀が、妻と同じく東京の生れである彼には、鼻持ちがならない気がしていた。ぜんたい東京の人間は皆少しずつはにかみ[#「はにかみ」に傍点]屋である。電車や汽車の中などで知らない人に無遠慮に話しかけ、甚《はなはだ》しきはその人の持ち物の値段を聞いたり、買った店を尋ねたりするような大阪人の心やすさを、東京人は持ち合わせない。東京の人間はそう云うやり方を不作法であり、無躾《ぶしつけ》であるとする。それだけ東京人の方がよく云えば常識が円満に発達しているのだが、しかしあまり円満に過ぎて見えとか外聞とかに囚《とら》われる結果は、いきおい引っ込み思案になり消極的になることは免れられない。とにかく義太夫の語り口には、この東京人の最も厭《いと》う無躾なところが露骨に発揮されている。いかに感情の激越を表現するのでも、ああまでぶざま[#「ぶざま」に傍点]に顔を引き歪《ゆが》めたり、唇を曲げたり、仰《の》け反《ぞ》ったり、もがいたりしないでもいい。ああまでにしないと表わすことが出来ないような感情なら、東京人はむしろそんなものは表わさないで、あっさり洒落《しゃれ》にしてしまう。要は妻が長唄《ながうた》仕込みで、この頃もよく人知れぬ憂さを紛らすために弾《ひ》いているのが耳にあるせいか、まだあの冴《さ》えた撥《ばち》の音の方が淡いながらもなつかしく聞いていられた。老人に云わせると長唄の三味線は余程の名人が弾かない限り、撥が皮に打《ぶ》つかる音ばかりカチャカチャ響いて、かんじんの絃の音色が消さ