いそ[#「おあいそ」に傍点]を云ったのを、老人の方ではよく覚えていてわざわざ知らしてくれたのであるから、彼としては断りにくい場合でもあったし、それに人形芝居はとにかく、あの老人に附き合ってゆっくり話をするような機会が、ひょっとしたらもうこれっきり来ないであろうとも思えたからだった。鹿《しし》ヶ|谷《たに》の方に隠居所を作って茶人じみた生活をしている六十近い年寄りとは、もちろん趣味が合う訳もなし、何かにつけてうるさく通《つう》を振りまかれるのにはいつも閉口するのだけれど、若い時に散々遊んだ人だけあって何処か洒落《しゃらく》な、からっ[#「からっ」に傍点]としたところのあるのが、もうその人とも親子の縁が切れるかと思えばさすがになつかしく、少し皮肉な云い方をすれば、妻よりもむしろこの老人に名残《なご》りが惜しまれて、せめて夫婦でいる間に一ぺんぐらいは親孝行をしておいてもと、柄にないことを考えたのだが、しかし独断で承知したのは手落ちと云えば手落ちである。いつもの彼なら妻の都合と云うことに気が廻らない筈《はず》はないのである。ゆうべも勿論《もちろん》それを思いはしたけれども、実は夕方、「ちょっと神戸まで買い物に」といって彼女が出かけて行ったのを、恐らく阿曽に会いに行ったものと推《すい》していた。ちょうど老人から電話がかかった時分には、妻と阿曽とが腕を組み合って須磨の海岸をぶらついている影絵が彼の脳裡《のうり》に描かれていたので、「今夜会っているのなら明日は差支《さしつか》えないであろう」と、ふとそう思った訳なのであった。妻は従来かくし立てをしたことはなかったから、ゆうべは事実買い物に行ったのかも知れない。それをそうでなく取ったのは彼の邪推であったかも知れない。彼女はうそ[#「うそ」に傍点]をつくことは嫌《きら》いであるし、又うそ[#「うそ」に傍点]をつく必要はないにきまっているのだから。が、夫に取って決して愉快でない筈のことをそうハッキリと云うまでもないから、「神戸へ買い物に行く」という言葉の裏に「阿曽に会いに行く」と云う意味が含まれていたものと解釈したのは、彼の立ち場からは自然であって、悪く感ぐった訳ではなかった。妻の方でも要が邪推や意地悪をしたのでないことは分っているに違いなかった。或《あるい》は彼女は、ゆうべも会うことは会っているのだが、今日も会いたいのであるかも知れない。