立ち上って桟敷の客に「さあ来い」と云いながら喧嘩《けんか》を買って出たのである。なんでもその前から、見物席が大阪の太夫ということに反感を持つらしい土地ッ児と、そうでないものとの二派に分れて弥次《やじ》を飛ばしながら、大分おだやかでない形勢になっていたところへ、一方の桟敷から誰かが何か云ったのがその親分の癪《しゃく》に触ったものだと見える。「さあ、野郎、出て来い」と今にも桟敷へ飛びかかろうとする剣幕に、「まあまあ」といって仲間の者が一度にみんな立ち上ってその男をおさえつける。男はますます威丈高《いたけだか》に、仁王立ちになって怒号しつづける。外の見物があの男をどうかしろと騒ぎ出す。おかげで折角の真打ちの語り物がとうとう滅茶々々にされてしまった。 [#5字下げ]その十二[#「その十二」は中見出し] 「じゃあ要《かなめ》さん、行って来るからね」 「御きげんよろしゅう。まあ、まあ、ほんとに、お天気のつづくのが何よりです。………お久さんも日に焼けないようにして、………」 「ふ、ふ」 と、笠の内で茄子歯《なすびば》が笑って、 「奥様によろしゅう云うとおくれやす」 朝の八時頃、神戸行きの船が客を乗せている桟橋《さんばし》のところで、要は二人の順礼姿と袂《たもと》を分つことになった。 「どうぞお気をおつけなすって。―――いつごろお宅へお帰りになります?」 「さあ、―――三十三箇所を残らず廻っちゃあ大変なんで、いい加減にするつもりだが、―――とにかく福良から徳島へ渡って、それから帰ります」 「お土産は淡路人形ですな」 「うん、そう。そのうちに是非京都へ見に来て貰《もら》いましょう、今度こそいいのを手に入れるから」 「ええ、ええ、いずれにしても月末時分に一ぺんお邪魔に出るかも知れません、ちょっとあの辺についでもあるんです」 岸を離れて行く船の上から、要は陸に立っている二人の方へ帽子を振った。 [#ここから2字下げ] 迷故《めいこ》三界城《さんがいじょう》 悟故《ごこ》十方空《じっぽうくう》 本来《ほんらい》無東西《むとうざい》 何処《かしょ》有南北《うなんぼく》 [#ここで字下げ終わり] ―――笠の四方にそう筆太《ふでぶと》に記してある文字が、だんだん小さく読めないようになる。お久がしきりに杖をかざして帽子に答えているのが見える。ああして笠を