なってきらきらと落ちた。西洋の女は泣き虫だと云うことを聞いていたものの、こんなところを見るのは初めての要は、悲しい歌のしらべでも耳に馴れない外国のものはその悲しさが異様に強く感ぜられるのと同じように、妙にしみじみと哀れさがこたえた。 「弟は何処で死んだのかね?」 「加奈陀《カナダ》で」 「いくつになるの?」 「四十八か、九か、それとも五十か、多分そのくらいになっていたでしょう」 「まだ死なないでもいい歳だのに。―――それじゃあなたは加奈陀へ行かなけりゃならないんだろう?」 「いいえ、止める、行ったって仕様がないんだから」 「その弟と何年会わなかったんです」 「もう二十年ばかりになります、―――千九百九年に、倫敦《ロンドン》にいた時会ったのが最後でした、手紙は始終やりとりをしていましたけれど。………」 弟の歳が五十だとすると、このかみさん[#「かみさん」に傍点]は今年幾つになるのであろう。考えてみれば要が彼女を知ってからでもすでに十年以上になる。まだ横浜が地震で今のようにならなかった時分、彼女は山手と根岸とに邸《やしき》を構えて、いつも両方に女を五六人ずつは置いていた。神戸のこの家もその頃から別荘のようになっていたばかりでなく、そういう出店を上海《シャンハイ》や香港《ホンコン》あたりにも持って、日本と支那とを股《また》にかけてときどき往ったり来たりしながら、ひとしきりは可なり手広くやっていたのに、それがいつのまにか、彼女の肉体のおとろえると共に商売の方もだんだん振わなくなってしまった。世界戦争から此方《こっち》、日本の外国商館は次第に内地の貿易商に仕事を取られてぽつぽつ本国へ引き上げてしまうし、観光客にも昔のように馬鹿なお金を使うようなのが来なくなったのが悪いんだと、当人は云うのだが、あながちそればかりが不振の原因ではないであろう。要がはじめて知った時分には、彼女は今ほど耄碌《もうろく》してはいなかった。生れは英吉利《イギリス》のヨークシャアで、何とか云う女学校を出て、立派な教育を受けたと云うのを自慢にして、日本に十何年もいながらどんな時にも日本語は一と言もしゃべったことがなく、大概な女たちが植民地英語しかしゃべれない中で彼女一人が正確な英語を、それも殊更《ことさら》むずかしい単語や云い廻しを使い、仏蘭西《フランス》語も独逸《ドイツ》語も流暢《りゅうちょ