になっていることを、当人は夢にも知らないらしい。が、ともかくも暫くその声を聞いた後に再び眼を開いて室内を見ると、何と云う思いがけない光景であろう、彼女は化粧台の前の椅子にもたれて、満洲朝の官服に似せた刺繍《ししゅう》のあるパジャマの上衣《うわぎ》だけを、ようよう臀《しり》と擦れ擦れに着ている下はパンツの代りに脛《すね》一面のお白粉《しろい》を穿《は》いた脚の先へ、仏蘭西型の踵《かかと》の附いた浅黄色の絹の上靴《パントウフル》を、その爪先を二|艘《そう》の可愛い潜航艇の舳《へさき》のように尖らしているのである。そう云えばこの女は脛ばかりでなく、殆ど全身へうすくお白粉を引くらしい。要は今朝も風呂から上ってそれだけの支度をするあいだ三十分以上も待っていなければならなかった。彼女自身に云わせれば母親の方に土耳古《トルコ》人の血が交っていると云うことで、その肌の色の白皙《はくせき》でないのを隠そうためにしているのだが、実を云うと要を最初に惹きつけたものはその何処やらに濁りを含んだ浅黒い皮膚のつや[#「つや」に傍点]であった。「君、この女なら巴里《パリ》へ行ったって相当に蹈《ふ》めるぜ、こんな女が神戸あたりにうろついていようとは思わなかった」と、或る時彼に案内された仏蘭西がえりの友達は云った。その時分、―――と云うのは今から二三年まえ、要は日本人でありながら特別に出入りを許されていた横浜時代のよしみを思ってふとこの家を訪ねた折に、彼女は波蘭土《ポーランド》の生れだと云って外の二人の女と一緒にシャンパンのふるまいにあずかるべく挨拶に出て来たのである。彼女はまだ、神戸へ来てから三月にはならないと云っていた。戦争で国を追われて、露西亜にも居、満洲にも居、朝鮮にも居、そのあいだにいろいろの言葉を覚えたとかで、外の二人の露西亜生れの女とは自由に露西亜語で話した。「巴里へ行けば私は一と月で仏蘭西人と同じようにしゃべってみせる」と自慢をするだけのものはあって、語学は彼女の恵まれた才能であるらしく、三人のうちでこの女のみがかみさん[#「かみさん」に傍点]のブレント夫人や、ヤンキーの酔っ払いなどを向うに廻して、英語でテキパキ渡り合うことが出来たのである。けれど彼女が日本語をまでそれほど自在にあやつろうとは! バラライカやギタルラを伴奏しながらスラヴの唄をうたう口から、安来《やすぎ》節や鴨緑江《おうり