「まあ、そう云うなよ、僕は成るべく悪い場合を考えないようにしているんだから」 「そう云うところが君は実にやりっ放しで、変な人だな。そう云う点を曖昧《あいまい》にしておくから別れるのにも思い切りが悪くなるんだ」 「けど、………最初に調べりゃあよかったんだが、今になっちゃあ仕方がないな」 要はまるで他人事《ひとごと》のように云い捨てながら、再びものうげにソファへ倒れた。 いったい阿曽と美佐子とのあいだにどれほどの情熱が燃えているものか、要には想像が付かないのである。それを想像することはいくら冷やかな夫であっても面白かろう筈《はず》はないので、ときどき好奇心の動くことはありながら、彼は努めてその臆測から眼を閉じていた。そもそもの起りはざっと二年も前のことである。或る日大阪から帰って来ると、ヴェランダで妻と相対している見馴《みな》れない一人の客があって、「阿曽さんという方」と美佐子が簡単に引き合わせた。と云うのは、夫は夫、妻は妻で、めいめい交際の範囲を作って自由な行動を取ることがいつしか習わしになっていたので、別にそれ以上の説明は必要でなかったからだけれども、その頃彼女は退屈しのぎに神戸へ仏蘭西語の稽古《けいこ》に行っていて、そこで友達になったらしい話しぶりであった。要には当時ただそれだけが分っただけで、その後妻の身だしなみが前よりは念入りになり、鏡の前に日々新しい化粧道具がふえて行くようになったことなどは、全く見落していたくらい無頓着《むとんじゃく》な夫だったのである。彼が初めて妻の素振りに気が付いたのは、それから一年近くも過ぎてからだった。或る晩彼は、額の上まで夜着をかぶって寝ている妻が、かすかにすすり泣くのをきくと、長いことそのすすり泣きを耳にしながら明りの消えた寝室の闇《やみ》を視《み》つめていた。妻が夜中に嗚咽《おえつ》の声を漏らすことは、それまでにも例がなかった訳ではない。結婚してから一二年の後、次第に性的に彼女を捨てかけていた当座、かれはしばしば女心の遣《や》る瀬なさを訴えているこの声に脅かされた。そうして声の意味が分れば分るほど、可哀そうだと思えば思うほど、なおさら自分と妻との距離の遠ざかるのが感ぜられ、慰める言葉もないままに黙ってそれを聞きすごしたものであった。彼はこれから生涯のあいだ、何年となく夜な夜なこの声に脅かされることを思うと、もうそれだけで