と、そう云って、そのぼんち[#「ぼんち」に傍点]らしい人の好《よ》い眼もとに、何か私には意味の分らない笑いを浮かべた。 [#3字下げ]その五 国栖《くず》[#「その五 国栖」は中見出し] さてこれからは私が間接に津村の話を取り次ぐとしよう。 そう云う訳で、津村が吉野と云う土地に特別のなつかしさを感ずるのは、一つは千本桜の芝居の影響によるのであるが、一つには、母は大和の人だと云うことをかねがね聞いていたからであった。が、大和のどこから貰《もら》われて来たのか、その実家は現存しているのか等のことは、久しく謎《なぞ》に包まれていた。津村は祖母の生前に出来るだけ母の経歴を調べておきたいと思って、いろいろ尋ねたけれども、祖母は何分《なにぶん》にも忘れてしまったと云うことで、はかばかしい答は得られなかった。親類の誰彼、伯父伯母《おじおば》などに聞いてみても、母の里方《さとかた》については、不思議に知っている者がなかった。ぜんたい津村家は旧家であるから、あたりまえなら二代も三代も前からの縁者が出入りしているはずであるが、母は実は、大和からすぐ彼の父に嫁《とつ》いだのでなく、幼少の頃大阪の色町へ売られ、そこからいったん然《しか》るべき人の養女になって輿入《こしい》れをしたらしい。それで戸籍《こせき》面の記載《きさい》では、文久三年に生れ、明治十年に十五歳で今橋三丁目浦門喜十郎の許《もと》から津村家へ嫁《とつ》ぎ、明治二十四年に二十九歳で死亡している。中学を卒業する頃の津村は、母に関してようようこれだけのことしか知らなかった。後から考えれば、祖母や親戚の年寄たちが余り話してくれなかったのは、母の前身が前身であるから、語るを好まなかったのであろう。しかし津村の気持では、自分の母が狭斜《きょうしゃ》の巷《ちまた》に生い立った人であると云う事実は、ただなつかしさを増すばかりで別に不名誉《ふめいよ》とも不愉快《ふゆかい》とも感じなかった。まして縁づいたのが十五の歳《とし》であるとすれば、いかに早婚《そうこん》の時代だとしても、恐らく母はそういう社界の汚れに染まる度も少く、まだ純真な娘《むすめ》らしさを失っていなかったであろう。それなればこそ子供を三人も生んだのであろう。そして初々《ういうい》しい少女の花嫁《はなよめ》は、夫の家に引き取られて旧家の主婦たるにふさわしいさまざまな躾