けいこぼん》を見たことがあるが、それは半紙を四つ折りにしたものへ横に唄の詞を列《つら》ね、行間《ぎょうかん》に琴の譜《ふ》を朱《しゅ》で丹念《たんねん》に書き入れてある、美しいお家流《いえりゅう》の筆蹟《ひっせき》であった。 そののち津村は東京へ遊学したので、自然家庭と遠ざかることになったが、そのあいだも母の故郷を知りたい心はかえって募《つの》る一方であった。有りていに云うと、彼の青春期は母への思慕《しぼ》で過ぐされたと云ってよい。行きずりに遇《あ》う町の女、令嬢《れいじょう》、芸者、女優、―――などに、淡《あわ》い好奇心を感じたこともないではないが、いつでも彼の眼に止まる相手は、写真で見る母の俤《おもかげ》にどこか共通な感じのある顔の主《ぬし》であった。彼が学校生活を捨てて大阪へ帰ったのも、あながち祖母の意に従ったばかりでなく、彼自身があこがれの土地へ、―――母の故郷に少しでも近い所、そして彼女がその短かい生涯《しょうがい》の半分を送った島の内の家へ、―――惹き寄せられたためなのである。それに何と云っても母は関西の女であるから、東京の町では彼女に似通った女に会うことが稀だけれども、大阪にいると、ときどきそう云うのに打《ぶ》つかる。母の生い育ったのはただ色町と云うばかりで、いずこの土地とも分らないのが恨みであったが、それでも彼は母の幻《まぼろし》に会うために花柳界《かりゅうかい》の女に近づき、茶屋酒に親しんだ。そんなことから方々に岡惚《おかぼ》れを作った。「遊ぶ」と云う評判も取った。けれども元来が母恋いしさから起ったのに過ぎないのだから、一遍《いっぺん》も深入りをしたことはなく、今日まで童貞《どうてい》を守り続けた。 こうして二三年を過すうちに祖母が死んだ。 その、祖母が亡くなった後のある日のことである。形見の品を整理しようと思って土蔵の中の小袖箪笥《こそでだんす》の抽出《ひきだ》しを改めていると、祖母の手蹟《しゅせき》らしい書類に交《まじ》って、ついぞ見たことのない古い書付けや文反古《ふみほぐ》が出て来た。それはまだ母が勤め奉公時代に父と母との間に交された艶書《えんしょ》、大和の国の実母らしい人から母へ宛《あ》てた手紙、琴、三味線、生け花、茶の湯等の奥許《おくゆる》しの免状《めんじょう》などであった。艶書は父からのものが三通、母からのものが二通、初恋に酔《よ》う