しい書類に交《まじ》って、ついぞ見たことのない古い書付けや文反古《ふみほぐ》が出て来た。それはまだ母が勤め奉公時代に父と母との間に交された艶書《えんしょ》、大和の国の実母らしい人から母へ宛《あ》てた手紙、琴、三味線、生け花、茶の湯等の奥許《おくゆる》しの免状《めんじょう》などであった。艶書は父からのものが三通、母からのものが二通、初恋に酔《よ》う少年少女のたわいのない睦言《むつごと》の遣《や》り取《と》りに過ぎないけれども、互《たがい》に人目を忍《しの》んでは首尾していたらしい様子合いも見え、殊に母のものは「………おろかなりし心より思し召《おぼめ》しをかえりみず文さし上候《あげそうろう》こなた心少しは御汲分《おんくみわ》け………」とか「ひとかたならぬ御事のみ仰下《おおせくだ》されなんぼうか嬉《うれ》しくぞんじ色々|耻《はず》かしき身の上までもお咄《はなし》申上げ………」とか、十五の女の児にしては、筆の運びこそたどたどしいものの、さすがにませ[#「ませ」に傍点]た言葉づかいで、その頃の男女の早熟《そうじゅく》さが思いやられた。次に故郷の実家から寄越したのは一通しかなく、宛名《あてな》は「大阪市新町九軒粉川様内おすみどの」とあり、差出人は「大和国吉野郡国栖村|窪垣内《くぼかいと》昆布助左衛門内」となっていて、「此度|其身《そのみ》の孝心をかんしん致《いたし》候ゆえ文して申遣《もうしつかわ》し参らせ候《そろ》左候《さそうら》えば日にまし寒さに向い候え共《ども》いよいよかわらせなく相くらされこのかたも安心いたし居《おり》候ととさんと申《もうし》かかさんと申誠に誠に難有《ありがたく》………」と云うような書き出しで、館《やかた》の主人を親とも思い大切にせねばならぬこと、遊芸のけいこに身を入れること、人の物を欲しがってはならぬこと、神仏を信心することなど、教訓めいたことのかずかずが記してあった。 津村は土蔵の埃《ほこり》だらけな床の上にすわったまま、うす暗い光線でこの手紙を繰《く》り返《かえ》し読んだ。そして気がついた時分には、いつか日が暮れていたので、今度はそれを書斎へ持って出て、電燈の下にひろげた。むかし、恐らくは三四十年も前に、吉野郡国栖村の百姓家で、行燈《あんどん》の灯影《ほかげ》にうずくまりつつ老眼の脂《やに》を払い払い娘のもとへこまごまと書き綴《つづ》っていたであろう老