れること、人の物を欲しがってはならぬこと、神仏を信心することなど、教訓めいたことのかずかずが記してあった。 津村は土蔵の埃《ほこり》だらけな床の上にすわったまま、うす暗い光線でこの手紙を繰《く》り返《かえ》し読んだ。そして気がついた時分には、いつか日が暮れていたので、今度はそれを書斎へ持って出て、電燈の下にひろげた。むかし、恐らくは三四十年も前に、吉野郡国栖村の百姓家で、行燈《あんどん》の灯影《ほかげ》にうずくまりつつ老眼の脂《やに》を払い払い娘のもとへこまごまと書き綴《つづ》っていたであろう老媼《ろうおう》の姿が、その二《ふ》たひろにも余る長い巻紙の上に浮かんだ。文《ふみ》の言葉や仮名づかいには田舎の婆《ばば》が書いたらしい覚《おぼ》つかないふしぶしも見えるけれども、文字はそのわりに拙《まず》くなく、お家流の正しい崩《くず》し方で書いてあるのは、満更《まんざら》の水呑《みずの》み百姓でもなかったのであろう。が、何か暮らし向きに困る事情が出来て、娘を金に替《か》えたのであることは察せられる。ただ惜しいことに十二月七日とあるばかりで、年号が書き入れてないのだが、多分この文《ふみ》は娘を大阪へ出してからの最初の便《びん》であろうと思われる。しかしそれでも老い先短かい身の心細く、ところどころに「これかかさんのゆい言ぞや」とか、「たとえこちらがいのちなくともその身に付そい出《しゅつ》せいをいたさせ候間」などと云う文句が見え、何をしてはならぬ、彼《か》をしてはならぬと、いろいろと案じ過して諭《さと》している中にも、面白いのは、紙を粗末にせぬようにと、長々と訓戒《くんかい》を述べて、「此《この》かみもかかさんとおりとのすきたる紙なりかならずかならずはだみはなさず大せつにおもうべし其《その》身はよろずぜいたくにくらせどもかみを粗末にしてはならぬぞやかかさんもおりとも此《この》かみをすくときはひびあかぎれに指のさきちぎれるようにてたんとたんと苦《く》ろういたし候」と、二十行にも亘《わた》って書いていることである。津村はこれによって、母の生家が紙すきを業としていたのを知り得た。それから母の家族の中に、姉か妹であるらしい「おりと」と云う婦人のあることが分った。なおその外に「おえい」と云う婦人も見えて、「おえいは日々雪のつもる山に葛《くず》をほりに行き候《そうろう》みなしてかせぎためろぎん