が見え、何をしてはならぬ、彼《か》をしてはならぬと、いろいろと案じ過して諭《さと》している中にも、面白いのは、紙を粗末にせぬようにと、長々と訓戒《くんかい》を述べて、「此《この》かみもかかさんとおりとのすきたる紙なりかならずかならずはだみはなさず大せつにおもうべし其《その》身はよろずぜいたくにくらせどもかみを粗末にしてはならぬぞやかかさんもおりとも此《この》かみをすくときはひびあかぎれに指のさきちぎれるようにてたんとたんと苦《く》ろういたし候」と、二十行にも亘《わた》って書いていることである。津村はこれによって、母の生家が紙すきを業としていたのを知り得た。それから母の家族の中に、姉か妹であるらしい「おりと」と云う婦人のあることが分った。なおその外に「おえい」と云う婦人も見えて、「おえいは日々雪のつもる山に葛《くず》をほりに行き候《そうろう》みなしてかせぎためろぎん出来|候《そうら》えば其身にあいに参り候たのしみいてくれられよ」とあって、「子をおもうおやの心はやみ故《ゆえ》にくらがり峠《とうげ》のかたぞこいしき」と、最後に和歌が記されていた。 この歌の中にある「くらがり峠」と云う所は、大阪から大和へ越える街道にあって、汽車がなかった時代には皆その峠を越えたのである。峠の頂上に何とか云う寺があり、そこがほととぎすの名所になっていたから、津村も一度中学時代に行ったことがあったが、たしか六月頃のある夜の、まだ明けきらぬうちに山へかかって、寺でひと休みしていると、暁《あかつき》の四時か五時頃だったろう、障子の外がほんのり白《しら》み初めたと思ったら、どこかうしろの山の方で、不意に一《ひ》と声ほととぎすが啼《な》いた。するとつづいて、その同じ鳥か、別なほととぎすか、二《ふ》た声も三声も、―――しまいには珍しくもなくなったほど啼きしきった。津村はこの歌を読むと、ふと、あの時は何でもなく聞いたほととぎすの声が、急にたまらなくなつかしいものに想い出された。そして昔の人があの鳥の啼く音を故人の魂《たましい》になぞらえて、「蜀魂《しょっこん》」と云い「不如帰《ふじょき》」と云ったのが、いかにももっともな連想であるような気がした。 しかし老婆の手紙について津村が最も奇《あや》しい因縁を感じたことが外にあった。と云うのは、この婦人、―――彼の母方の祖母にあたる人は、その文の中に狐のことをしき