《これ》からは其御内《そのおんうち》の武運長久あしきやまいなきようのきとう毎日毎日致し参らせ候|随分《ずいぶん》随分と信心なされるべく………」とか、そんなことが書いてあるのを見ると、祖母の夫婦はよほど稲荷の信仰に凝《こ》り固まっていたことが分る。察するところ「御屋しろの稲荷さま」と云うのは、屋敷のうちに小さな祠《ほこら》でも建てて勧進してあったのではないか。そしてその稲荷のお使いである「命婦之進」と云う白狐も、どこかその祠の近くに巣を作っていたのではないか。「そちの知ておる通りととさんがよべば狐のあのようにそばへくるようになるも」とあるのは、本当にその白狐が祖父の声に応じて穴から姿を現わすのか、それとも祖母になり祖父自身になり魂が乗り移るのか明かでないが、祖父なる人は狐を自由に呼び出すことが出来、狐はまたこの老夫婦の蔭に附添《つきそ》い、一家の運命を支配していたように思える。 津村は「此《この》かみもかかさんとおりとのすきたる紙なりかならずかならずはだみはなさず大せつにおもうべし」とあるその巻紙を、ほんとうに肌身《はだみ》につけて押《お》し戴《いただ》いた。少くとも明治十年以前、母が大阪へ売られてから間もなく寄越《よこ》された文だとすれば、もう三四十年は立っているはずのその紙は、こんがり[#「こんがり」に傍点]と遠火《とおび》にあてたような色に変っていたが、紙質は今のものよりもきめ[#「きめ」に傍点]が緻密《ちみつ》で、しっかりしていた。津村はその中に通っている細かい丈夫《じょうぶ》な繊維《せんい》の筋を日に透《す》かして見て、「かかさんもおりとも此《この》かみをすくときはひびあかぎれに指のさきちぎれるようにてたんとたんと苦ろういたし候」と云う文句を想《おも》い浮《う》かべると、その老人の皮膚にも似た一枚の薄い紙片の中に、自分の母を生んだ人の血が籠《こも》っているのを感じた。母も恐らくは新町の館《やかた》でこの文を受け取った時、やはり自分が今したようにこれを肌身につけ、押し戴いたであろうことを思えば、「昔の人の袖《そで》の香《か》ぞする」その文殻《ふみがら》は、彼には二重に床《ゆか》しくも貴い形見であった。 その後津村がこれらの文書を手がかりとして母の生家を突《つ》きとめるに至った過程については、あまり管々《くだくだ》しく書くまでもなかろう。何しろその当時から三四十