れを肌身につけ、押し戴いたであろうことを思えば、「昔の人の袖《そで》の香《か》ぞする」その文殻《ふみがら》は、彼には二重に床《ゆか》しくも貴い形見であった。 その後津村がこれらの文書を手がかりとして母の生家を突《つ》きとめるに至った過程については、あまり管々《くだくだ》しく書くまでもなかろう。何しろその当時から三四十年前と云えば、ちょうど維新《いしん》前後の変動に遭遇《そうぐう》しているのだから、母が身売りをした新町九軒の粉川と云う家も、輿入《こしい》れの前に一時|籍《せき》を入れていた今橋の浦門と云う養家も、今では共に亡びてしまって行くえが分らず、奥許しの免状《めんじょう》に署名している茶の湯、生け花、琴三味線等の師匠《ししょう》の家筋も、多くは絶えてしまっていたので、結局前に挙げた文を唯一の手がかりに、大和の国吉野郡国栖村へ尋ねて行くのが近道であり、またそれ以外に方法もなかった。それで津村は、自分の家の祖母が亡くなった年の冬、百ヶ日の法要を済ますと、親しい者にも其の目的は打ち明けずに、ひとり飄然《ひょうぜん》と旅に赴《おもむ》く体裁《ていさい》で、思い切って国栖村へ出かけた。 大阪と違って、田舎はそんなに劇《はげ》しい変遷《へんせん》はなかったはずである。まして田舎も田舎、行きどまりの山奥に近い吉野郡の僻地《へきち》であるから、たとい貧しい百姓家であってもわずか二代か三代の間にあとかたもなくなるようなことはあるまい。津村はその期待に胸を躍《おど》らせつつ、晴れた十二月のある日の朝、上市《かみいち》から俥《くるま》を雇《やと》って、今日私たちが歩いて来たこの街道を国栖へ急がせた。そしてなつかしい村の人家が見え出したとき、何より先に彼の眼を惹《ひ》いたのは、ここかしこの軒下に乾してある紙であった。あたかも漁師町《りょうしまち》で海苔《のり》を乾すような工合に、長方形の紙が行儀よく板に並べて立てかけてあるのだが、その真っ白な色紙《しきし》を散らしたようなのが、街道の両側や、丘の段々の上などに、高く低く、寒そうな日にきらきらと反射しつつあるのを眺めると、彼は何がなしに涙が浮かんだ。ここが自分の先祖の地だ。自分は今、長いあいだ夢に見ていた母の故郷の土を蹈《ふ》んだ。この悠久《ゆうきゅう》な山間の村里は、大方母が生れた頃も、今眼の前にあるような平和な景色をひろげていただろう