ら庭先で紙を乾していたこの家の主婦らしい二十四五の婦人の前へ寄って行った。 主婦は彼から来意を聞かされても、あまりその理由が唐突《とうとつ》なのでしばらく遅疑《ちぎ》する様子であったが、証拠の手紙を出して見せると、だんだん納得が行ったらしく、「わたしでは分りませんから、年寄に会って下さい」と、母家の奥にいた六十|恰好《かっこう》の老媼を呼んだ。それがあの手紙にある「おりと」―――津村の母の姉に当る婦人だったのである。 この老媼は彼の熱心な質問の前にオドオドしながら、もう消えかかった記憶の糸を手繰《たぐ》り手繰り歯の抜けた口から少しずつ語った。中には全く忘れていて答えられないこと、記憶ちがいと思われること、遠慮《えんりょ》して云わないこと、前後|矛盾《むじゅん》していること、何かもぐもぐ[#「もぐもぐ」に傍点]と云うには云っても息の洩《も》れる声が聴き取りにくく、いくら問い返しても要領を掴《つか》めなかったことなどがたくさんあって、半分以上はこちらが想像で補うより外《ほか》はなかったが、とにかくそう云う風にしてでも津村が知り得た事柄は、母に関する二十年来の彼の疑問を解くに足りた。母が大阪へやられたのは、たしか慶応《けいおう》頃だったと婆《ばあ》さんは云うのだけれども、ことし六十七になる婆さんが十四五歳、母が十一二歳の時だったそうであるから、明治以後であることは云うまでもない。それゆえ母はわずか二三年、多くも四年ほど新町に奉公《ほうこう》しただけで、じきに津村家へ嫁《とつ》いだことになる。おりと婆さんの口吻《くちぶり》から察するのに、昆布の家は当時|窮迫《きゅうはく》こそしていたものの、相当に名聞を重んずる旧家で、そんな所へ娘を勤めに出したことをなるべく隠していたのであろう。それで娘が奉公中はもちろんのこと、立派な家の嫁になった後までも、一つには娘の耻《はじ》、一つには自分たちの耻と思って、あまり往き来《き》をしなかったのであろう。また、実際にその頃の色里の勤め奉公は、芸妓《げいぎ》、遊女、茶屋女、その他何であるにしろ、いったん身売りの証文に判をついた以上、きれいに親許《おやもと》と縁《えん》を切るのが習慣であり、その後の娘はいわゆる「喰焼《くいやき》奉公人」として、どう云う風に成り行こうとも、実家はそれに係り合う権利がなかったでもあろう。しかし婆さんのおぼろげな記憶に