たその方がかえって勝手のよいこともあるのだが、「せっかくの機会だから来て見てはどうか」と津村からそう云って来たのは、たしかその年の十月の末か、十一月の初旬《しょじゅん》であった。津村は例の国栖の親戚を訪《おとな》う用がある、それで、三の公までは行けまいけれども、まあ国栖の近所をひと通り歩いて、大体の地勢や風俗を見ておいたら、きっと参考になることがあろう。何も南朝の歴史に限ったことはない、土地が土地だから、それからそれと変った材料が得られるし、二つや三つの小説の種は大丈夫《だいじょうぶ》見つかる。とにかく無駄《むだ》にはならないから、そこは大いに職業意識を働かせたらどうだ。ちょうど今は季候もよし、旅行には持って来いだ。花の吉野と云うけれども、秋もなかなか悪くはないぜ。―――と云うのであった。 で、大そう前置きが長くなったが、こんな事情で急に私は出かける気になった。もっとも津村の云うような「職業意識」も手伝っていたが、正直のところ、まあ漫然《まんぜん》たる行楽の方が主であったのである。 [#3字下げ]その二 妹背山《いもせやま》[#「その二 妹背山」は中見出し] 津村は何日に大阪を立って、奈良《なら》は若草山の麓《ふもと》の武蔵野《むさしの》と云うのに宿を取っている、―――と、そう云う約束《やくそく》だったから、こちらは東京を夜汽車で立ち、途中《とちゅう》京都に一泊して二日目の朝奈良に着いた。武蔵野と云う旅館は今もあるが、二十年前とは持主が変っているそうで、あの時分のは建物も古くさく、雅致《がち》があったように思う。鉄道省のホテルが出来たのはそれから少し後のことで、当時はそこと、菊水《きくすい》とが一流の家であった。津村は待ちくたびれた形で、早く出かけたい様子だったし、私も奈良は曾遊《そうゆう》の地であるし、ではいっそのこと、せっかくのお天気が変らないうちにと、ほんの一二時間|座敷《ざしき》の窓から若草山を眺《なが》めただけで、すぐ発足した。 吉野口で乗りかえて、吉野駅まではガタガタの軽便鉄道《けいべんてつどう》があったが、それから先は吉野川に沿うた街道《かいどう》を徒歩で出かけた。万葉集にある六田《むつだ》の淀《よど》、―――柳《やなぎ》の渡《わた》しのあたりで道は二つに分れる。右へ折れる方は花の名所の吉野山へかかり、橋を渡るとじきに下の千本になり、関屋の