ほど新町に奉公《ほうこう》しただけで、じきに津村家へ嫁《とつ》いだことになる。おりと婆さんの口吻《くちぶり》から察するのに、昆布の家は当時|窮迫《きゅうはく》こそしていたものの、相当に名聞を重んずる旧家で、そんな所へ娘を勤めに出したことをなるべく隠していたのであろう。それで娘が奉公中はもちろんのこと、立派な家の嫁になった後までも、一つには娘の耻《はじ》、一つには自分たちの耻と思って、あまり往き来《き》をしなかったのであろう。また、実際にその頃の色里の勤め奉公は、芸妓《げいぎ》、遊女、茶屋女、その他何であるにしろ、いったん身売りの証文に判をついた以上、きれいに親許《おやもと》と縁《えん》を切るのが習慣であり、その後の娘はいわゆる「喰焼《くいやき》奉公人」として、どう云う風に成り行こうとも、実家はそれに係り合う権利がなかったでもあろう。しかし婆さんのおぼろげな記憶によると、妹が津村家へ縁づいてから、彼女の母は一度か二度、大阪へ会いに行ったことがあるらしく、今では大家《たいけ》の御料人様《ごりょうにんさん》に出世した結構ずくめの娘の身の上を驚異をもって語っていた折があった。そして彼女にも是非大阪へ出て来るようにと言《こと》づてを聞いたけれども、そんな所へ見すぼらしい姿で上れるはずもなし、妹の方もあれなり故郷を訪れたことがなかったので、彼女はついぞ成人してからの妹と云うものを知らずにいるうち、やがてその旦那《だんな》様が死に、妹が死に、彼女の方の両親も死に、もうそれからはなおさら津村家との交通が絶えてしまった。 おりと婆さんはその肉親の妹、―――津村の母のことを呼ぶのに「あなた様のお袋《ふくろ》さま」と云う廻《まわ》りくどい言葉を用いた。それは津村への礼儀からでもあったろうが、事によると妹の名を忘れているのかも知れなかった。「おえいは日々雪のふる山に葛《くず》をほりに行き候《そうろう》」とあるその「おえい」と云う人を尋ねると、それが総領娘で、二番目がおりと、末娘が津村の母のおすみであった。が、ある事情から長女のおえいが他家へ縁づき、おりとが養子を迎えて昆布の跡を継《つ》いだ。そして今ではそのおえいもおりとの夫も亡くなって、この家は息子の由松の代になり、さっき庭先で津村に応待した婦人がその由松の嫁であった。そう云う訳で、おりとの母が存生の頃はすみ女に関する書類や手紙なども少しは