に行き候《そうろう》」とあるその「おえい」と云う人を尋ねると、それが総領娘で、二番目がおりと、末娘が津村の母のおすみであった。が、ある事情から長女のおえいが他家へ縁づき、おりとが養子を迎えて昆布の跡を継《つ》いだ。そして今ではそのおえいもおりとの夫も亡くなって、この家は息子の由松の代になり、さっき庭先で津村に応待した婦人がその由松の嫁であった。そう云う訳で、おりとの母が存生の頃はすみ女に関する書類や手紙なども少しは保存してあったはずだが、もはや三代を経た今日となっては、ほとんどこれと云う品も残っていない。―――と、おりと婆さんはそう語ってから、ふと思い出したように、立って仏壇《ぶつだん》の扉《とびら》を開いて、位牌《いはい》の傍に飾ってあった一葉《いちよう》の写真を持って来て示した。それは津村も見覚えのある、母が晩年に撮影した手札型の胸像で、彼もその複写の一枚を自分のアルバムに所蔵しているものであった。 「そう、そう、あなた様のお袋さまの物は、―――」 と、おりと婆さんはそれからまた何かを思い出した様子で附け加えた。 「この写真の外《ほか》に、琴《こと》が一面ございました。これは大阪の娘の形見だと申して、母が大切にしておりましたが、久しく出しても見ませぬので、どうなっておりますやら、………」 津村は、二階の物置きを捜《さが》したらあるだろうと云うその琴を見せて貰《もら》うために、畑へ出ていた由松の帰りを待った。そしてその隙《ひま》に近所で昼食をしたためて来てから、自分も若夫婦に手を貸して、埃《ほこり》の堆《うずたか》い嵩張《かさば》った荷物を明るい縁先へ運び出した。 どうしてこんな物がこの家に伝わっていたのであろう、―――色褪《いろあ》せた覆《おお》いの油単《ゆたん》を払うと、下から現れたのは、古びてこそいるが立派な蒔絵《まきえ》の本間《ほんけん》の琴であった。蒔絵の模様は、甲《こう》を除いたほとんど全部に行き亘《わた》っていて、両側の「磯《いそ》」は住吉《すみよし》の景色《けしき》であるらしく、片側に鳥居《とりい》と反橋《そりはし》とが松林の中に配してあり、片側に高燈籠《たかどうろう》と磯馴松《そなれのまつ》と浜辺の波が描いてある。「海」から「竜角《りゅうかく》」「四分六」のあたりには無数の千鳥《ちどり》が飛んでいて、「荻布《おぎぬの》」のある方、「柏葉《か